博士学位授与式 式辞 (2007年5月23日)

尾池 和夫

尾池総長本日、京都大学博士の学位を得られた66名の方々、まことにおめでとうございます。皆さま方それぞれのご苦労があって今日の学位になったと思います。しかし、今、皆さまはそのご苦労よりも、今までの研究のプロセスが実にすばらしい経験であったということを思い出されていることと思います。博士の学位を持つということは、並大抵の努力ではできないことであり、また、熱意と努力だけで得られるものでもありません。何があって今日の学位授与に至ったか、そういうことをもう一度よく考えてみて、それを後進の若い研究者や学生の皆さんに伝えることも、これからの皆さんの役目の一つになります。

学位を得られるまで、皆さまの周りには多くの方々の支援があったことと思います。指導にあたった教員、日ごろから議論の相手をした先輩や仲間、異なる分野にいる友人、今までの学習と研究の生活を支えてきたご家族や知人、さまざまの方々の支えがあって今日の学位があると思います。支えの中には、きっと皆さまご自身が気のついていないものもあることでしょう。それらに応えて、ご自分の研究者の成果を人類の役に立つように社会へ還元していくことも、これからの皆さんの役目となるのです。

今日の学位授与式で、110年の歴史の中で京都大学は、博士学位を35,059名の方々に授与したことになります。本日は課程博士49名、論文博士17名でしたが、制度的に可能な形で博士学位を授与することになっており、歴史的に呼び方も変化してきました。例えば私の指導教官であった西村 英一先生は京都帝国大学から授与された理学博士でしたし、私の場合は論文博士で、「京都大学理学博士」です。皆さまの学位は、括弧の中に分野を入れて、例えば「京都大学博士(理学)」という呼び方をします。

今日、学位授与された論文の中のいくつかを紹介してみたいと思います。

京都大学博士(社会健康医学)となられた医学研究科社会健康医学系専攻の呉 銀煥(オウ ウンファン)さんの学位論文題目は、「医療技術の普及要因:コンピューター断層撮影装置(CT)と磁気共鳴診断装置(MRI)について」です。主査は中原 俊隆(なかはら としたか)教授です。

コンピューター断層撮影装置による診断では、CTスキャンという言葉をよく聞きます。私も自分の心臓や脳の画像を持っています。磁気共鳴診断装置(MRI)は、高額であるにも関わらず急速に普及して使用されています。この学位論文にまとめられた研究は、CTやMRIといった高額の医療技術の普及に関連する要因を明らかにすることを目的としたものです。医療技術の普及を説明する体系的なモデルを構築しましたが、それはCTやMRIといった医療技術の普及における各国のバラツキを、購買力や経済的インセンティブという要因によって説明できるということを示したものであります。この点で、医療政策に関する研究として独創的であると評価されました。

学位授与の様子博士(教育学)の学位を授与された河原 紀子(かわはら のりこ)さんの学位論文題目は、「乳幼児の食行動における自律プロセス-養育者との対立と調整を中心に-」です。主査は、山田 洋子(やまだ ようこ)教授です。

本論文では、食事場面で展開される子どもと養育者の相互作用など、社会・文化的な「対人関係行動」としての側面を重視し、食行動を生物として自律的になる個体的行動であると同時に、社会的、文化的文脈のなかで発達する対人関係行動としてもとらえており、両側面から検討したところに大きな特徴があるというものです。

個体的行動としては「手づかみから道具使用への移行」、対人関係的行動としては「受動的摂食から自食への移行」に焦点をあて、4つの研究を行いました。乳幼児の「食べる行動」の自律過程を、詳細な縦断的観察によって追跡し、膨大なデータをまとめた実証的研究は、たいへん希少な労作であると報告されています。

乳幼児の食行動における自律プロセスは、受動的摂食から自食の開始を特徴とする「食の自律の開始期」、(前駆期、9~11か月)、受動的摂食から能動的な自食への移行、道具使用が開始される「食の自律の確立期」(第1期、12~17か月)、摂食における道具使用の割合が増大し、文化的な食事が開始される「文化的食事の自律開始期」(第2期、18~21か月)、道具使用率の一時的低下と手づかみによる摂食の復活を特徴とする「文化的食事の自律展開期」(第 3期、22~28か月)、食事のほとんどを定められた道具によって摂取する文化的な食事がほぼ完成される「文化的食事の自律確立期」(第4期、30~36 か月)というように、食の自律をふまえて文化的食事へと発達するプロセスが明らかになり、その発達に保育者の<間接的・迂回的摂食促し>が重要な役割を果たしていることがわかったという内容の論文です。

私には孫が4人いて、2人がすでにこのプロセスを経過して自律的に文化的食事を摂っており、1人は文化的食事の自律確立期におり、4人目は前駆期をもうすぐ迎える時期におります。21世紀の研究は多様性を基本的認識として進めることが必要であります。例えば、とくに医学や教育学にあっては、普遍性を求めてきた今までの研究手法に対して、個別の対応を可能とする研究へと進む必要があります。そういう観点からも、自分の子孫を観察した眼でこの論文にたいへん深い興味を持ちました。

会場の様子博士(経済学)を授与された中井 稔(なかい みのる)さんの学位論文題目は、「銀行経営と貸倒償却」です。主査は、吉田 和男(よしだ かずお)教授です。

本論文は、平成16年12月24日の最高裁判決にいたる、いわゆる興銀事件を具体的事例としながら、この貸し倒れ、あるいは不良債権をめぐる銀行経営の課題を、税法、商法、税務会計の立場から論述することによって、体系的な貸倒償却の理論を構築することを目指したものであります。

本論文の成果として特筆すべきは、社会的にも近年注目されてきた、いわゆる「不良債権」の諸問題を一般的な研究対象として、具体的には金銭債権の貸倒れの処理をめぐる、「興銀事件」とその最高裁における判決に至る過程の全プロセスに、銀行側から実務責任者として係争に直接関与した著者が、その個人的な経験を昇華して、体系的な研究として上程したことです。

これまでのような抽象的なリスク管理の理念に終始することなく、経営資源を積極的に投入して、独自のリスク測定の具体的方策を開発しうることを提案できたという点が、とくに大きな貢献であると思われます。

博士(経済学)を授与された若林 直樹(わかばやし なおき)さんの学位論文題目は、「日本企業のネットワークと信頼」です。主査は、田尾 雅夫(たお まさお)教授です。

本論文は、近年、ソーシャル・キャピタル論として展開しているネットワークの構造分析の視点を導入しつつ、日本的企業間の関係に於ける互恵的な信頼関係が、組織間のコミュニケーション・ネットワークの強連結、凝集的な構造特性に影響されている面があることを明らかにするという研究をまとめたもので、組織間でのネットワークについての構造的な解析の視点を導入した点、ネットワークの構造特性パターンによる企業間関係での相互期待や心理的契約の構築に与える効果を検討している点、またそれらを国際比較の視点から実証的な分析を行った点で、独自の成果を上げたと評価されました。

博士(工学)を授与された工学研究科都市環境工学専攻の金 洙列(キム スーヨル)さんの学位論文題目は、「韓国西海岸における高潮に及ぼす大潮汐変動の影響」です。主査は、髙山 知司(たかやまともつか)教授です。

本論文は、大潮位変動が高潮に与える影響を明らかにすることを目的として、台風によって起こされる高潮と高波に潮汐を加え、これらの要素間の連成を考慮して数値計算を行う連成結合モデルを開発しました。序論では朝鮮半島の地形的な海岸特性について述べてあり、特に黄海に面する韓国西海岸は10mにも達する大潮汐海岸で、広大な干潟地形が発達していると記されています。単純な地形や実際の地形に対して大潮汐変動が高潮に与える影響を数値計算によって調べました。高潮と潮汐、波浪との連成結合モデルで大潮位変動が高潮に与える影響に関して検討しており、潮位変動の大きな海域における高潮対策に関して重要な情報を提供したものです。

とくに私は序論で述べられている大潮汐に興味を持っています。韓国の東部には私たちが初めてその存在を確認した活断層があり、地震活動もありますが、その他に韓国の西部にも小さい地震がたくさん起こっています。私はその大潮汐による海面の大きな変動が小さい地震の発生に影響しているかもしれないと思って興味を持ったのであります。

学位論文というのは、その分野の研究の歴史の中に、自分の研究成果を位置づけながら、新しい知見を加えていくものですが、同時に異なる分野の研究者に情報を提供するものでもあります。皆さんも例えば、今日の学位授与の機会に、他の分野の方々の学位論文を、手当たり次第に読んでみてはいかがでしょうか。そこから研究の進む道が大きく展開してくるということもあると思います。

これからの道を皆さんはそれぞれに設定しておられることと思います。研究者としてさらに続きを始めている方もおられることでしょう。京都大学でも科学技術振興調整費の支援も得て、若手研究者の支援、女性研究者の支援をする仕組みを導入しました。また、異なる道へ大きく転換を図る方もおられるでしょうし、研究の経験を生かして企業で働く方もいるでしょう。また、教育者として研究成果を市民に還元する方もおられるでしょう。いずれにしても、こころと身体の健康を第一として、楽しい人生を送ってほしいと思います。皆さまのさらなるご活躍を祈って、私のお祝いの言葉といたします。

博士学位まことにおめでとうございます。