大腸菌、枯草菌、酵母、ショウジョウバエ、線虫、ゼブラフィッシュ、マウスといったモデル生物は、近年の生命科学研究を牽引してきました。植物では、緑藻クラミドモナスやアブラナ科のシロイヌナズナ、蘚(セン)類のヒメツリガネゴケなどがモデルとして選ばれてきました。モデル生物の多くは海外の研究者によって研究基盤が整備されたものであり、日本発のモデル生物はメダカなどごく少数の生物種に限られています。
陸上植物の進化発生生物学のモデルとして、苔(タイ)類のひとつ、ゼニゴケ(学名: Marchantia polymorpha )が注目されています。陸上植物の基部に位置するコケ植物タイ類は、生活環の大半が配偶体世代(単相 n )であるため突然変異体の分離が容易であること、雌雄異株で人為的交配が容易なこと、減数分裂を経た遺伝学的に異なる胞子が多数得られることなどから遺伝学に適した材料です。また、ゼニゴケの繁殖様式は実験生物学を進める上でも有利な点があります。体制(体のつくり)は単純ですが、有用作物を含む陸上植物に共通した基本的な特徴を備えていることや遺伝学や分子生物学の実験をおこなうのに優れた特徴を備えています。このような点から、陸上植物全体を代表する、シンプルでかつ扱いやすいモデル生物として期待できます。
ゼニゴケは世界に広く分布する植物で、ヨーロッパでは古くから植物学の研究対象として、盛んに研究され、教材としても親しまれてきました。第二次大戦中には専門書も刊行されています。しかし、その後、あまり注目されなくなっていました。分子生物学研究の材料としてのゼニゴケに最初に着目したのは本学の研究グループでした。1986年には、ゼニゴケ属の培養細胞から、タバコ葉緑体DNAとともにはじめて葉緑体DNAの全塩基配列が決定され、葉緑体ゲノムにコードされる遺伝子の全体像と基本的な保存性が示されました。次いで1992年には同細胞から植物のミトコンドリアDNAの全構造が明らかにされました。さらに近年は約280Mbとされる核ゲノムについても解析が進んでいます。ゼニゴケは、8本の常染色体と性染色体(X染色体またはY染色体)をもちます。植物性染色体として最初にゼニゴケY染色体の構造が明らかにされました。ゼニゴケのゲノムには進化的な位置を反映して、藻類および陸上植物に共通する基本的な遺伝子セットをもつことがわかりました。現在では、迅速かつ簡便なゲノム編集も可能となり、もっとも遺伝子導入や遺伝子機能解析が容易な植物のひとつです。進化的な位置づけを考慮したモデル植物としての利用が広がっています。
今回、河内孝之 生命科学研究科教授と荒木崇 生命科学研究科教授の研究グループは、文部科学省科学研究費補助金 新学術領域研究「植物の発生ロジックの多元的開拓」の支援により次の活動を行いました。
- 第1回 国際ゼニゴケ研究トレーニングコースを開催
2016年2月25日から3月7日まで生命科学研究科においてThe 1st International Marchantia Training Course:(第1回国際ゼニゴケトレーニングコース)を開催しました。イギリス、ドイツ、スペイン、中国などの海外研究者や国内の外国人研究者ら8名が参加し、特別講義や講演会に加えて、ゼニゴケのゲノム解析、遺伝子解析、遺伝解析、顕微鏡観察といった実習を行いました。 - 国際誌Plant and Cell Physiologyにゼニゴケ特集を企画
John Bowman 博士(オーストラリア、モナシュ大学)とともに荒木教授と河内教授を編集者として、日本植物生理学会の発行する国際誌 Plant and Cell Physiology 2月号に、ゼニゴケ特集号を刊行しました。特集号では、ゼニゴケがもつ長い研究の歴史や最先端の分子遺伝学的実験手法を解説するとともに、過去にスケッチで記録された発生過程の検証と発生学用語の整理、そして研究コミュニティとしての遺伝子命名法の提言を行いました。また、ゼニゴケを材料として用いた先端的な研究を取り上げました。
ゼニゴケは、植物の進化多様性の理解に加えて、作物を含む被子植物と共通する陸上植物の基本的な制御ロジックを発見する上でも理想的なモデル生物としても期待されています。河内教授は3月7日発行の国際誌 Current Biology でFred Berger 博士(オーストリア、グレゴール・メンデル研究所)やBowman博士とともにゼニゴケの解説記事を発表しました。ヨーロッパを中心に200年以上前からさまざまな古典的な観察や実験に使われていたゼニゴケが、分子遺伝学やゲノム生物学の時代に日本(京都大学)発のモデル生物として再び注目を浴びています。現在、ゼニゴケ研究はまさに日本からの「ルネサンス」とも呼べる状況にあります。
タイ類のモデル植物: ゼニゴケ(左: 雌株、右: 雄株)
宝ヶ池株や京都大学理学部植物園で採集された北白川株が国際的な標準系統となっている。