平成14年3月25日
今日、京都大学修士の学位を得られた1,918名の皆さん、まことにおめでとうございます。ご列席の名誉教授、各研究科長の皆さんとともに心からお慶び致します。
ところで、皆さんにとって修士課程の2年間はどのような意味をもっていたでしょうか。修士課程修了のこの時にあたって、自分を振り返るということは非常に大切なことであります。自分の修士課程での学問研究とともに、もっと広い意味における自分というものを見つめなおすことが必要であります。人間として自分はどのように成長したのだろうかという問であります。
学部は基礎教育、教養教育に主眼をおいたものであるのに対して、大学院修士課程は、それぞれの専門分野の知識を深く学びとり、その分野の専門家として社会から認知される人材となる教育をすることにあるとされています。しかし単に専門的知識を身につけるというだけでなく、専門的知識をもつ人の持つべき当然の責任も負わねばなりません。すなわち、いろんな局面において正しい適切な判断を行い、そのように発言し、また行動ができるようでなければなりません。こういったことは、真理を探求する諸君の研究を通じて、自分の人格の総体において獲得したと思いますが、これを修士修了に際して、それぞれが自身に問うていただきたいのであります。
皆さんが過した修士課程の2年間に、社会ではいろんなことが起こりました。社会はまさに激変しております。特に日本においてはバブルがはじけて以来、経済はますます低迷し、企業は倒産し、失業者がどんどん増えるという厳しさであります。これまでの日本の多くの分野で行われて来た護送船団方式は完全に崩壊し、グローバル社会の中での激しい競争時代に突入しました。
また1989年にソ連が崩壊し、民主主義・資本主義が勝利したといわれ、その後は米国を中心として極端な金もうけ主義の時代に入って来ております。そして今日では日本においても企業間競争だけでなく、あらゆる所に競争的環境を導入し、構造改革を行い、強者が勝つという論理を貫徹しようといった状況になって来ています。これは裏返していえば、弱者は敗北し、没落してゆくことを意味しており、社会全体が勝者と敗者という二極分化の様相を呈することになる危険性があるわけであります。
しかし、そのような弱肉強食の世の中でよいはずはありません。お互いに分ち合うという考え方が必要であります。そのようなロマンティックな考え方が、この厳しい競争世界にありうるはずがないと思うかもしれませんが、たとえばオランダが実行しはじめてもう何年にもなるワークシェアリングはその1つの例であります。地球上で最も進歩した、崇高な精神をもっている人類が共存共栄といった理想へ向かって知恵を出せないはずはないのであります。
一方で競争は必要であります。しかしそれは健全な競争でなければなりません。競争というとき特に注意すべきことは、競争の目標や尺度が単純な数値的なものとなりがちなことであります。たとえば大きいことは良いことだとか、企業ではあらゆることを犠牲にして利益の追求のみに人々をかりたてる金もうけ主義といったことが行われ、質のよい物を作るとか、人々がいきいきと仕事をする環境といった数値に表れにくい価値が無視される傾向が強くなってきております。競争が何のために行われるのかといったことへの反省がなくなってしまっているわけであります。
1998年ノーベル経済学賞を受けた、経済学者であり、かつ哲学者であるアマルティア・セン氏は、従来のような利益追求型の経済至上主義は間違いであって、もっと人間中心主義の経済政策をとるべきだと主張し、「人間の安全保障」という概念をかねてから提出しておりましたが、これは国連でも取りあげられ議論がなされています。この人間の安全保障という概念は、特に最近のコソボやアフガンの難民問題、アフリカの一部の国の状況を考えても、益々重要な概念となって来ています。各国、各地域の貧困、階級や所得格差などに基づく不平等がこういった問題の裏に存在するわけで、こういったことを無くしてゆく政策を考え、努力してゆく必要があるわけです。
競争ということの内容、すなわちどういった形の競争が奨励され、どういった競争は否定されるべきかは難しい問題であります。日本の戦後の初等中等教育では、競争に対立する概念である平等ということに絶対的な価値がおかれ、またこの平等という概念が適切に理解されず、チャンスの平等でなく、結果の平等ということが無批判的に受入れられてしまいました。その結果、能力のある生徒がその能力を十分にのばすことができず、押えられてしまうことになってしまいました。これは学力だけでなく、運動能力、その他においても同様で、全体が低いレベルに落ちてゆくということになり、無気力が教育界全体をおおうということになってしまいました。そして一方では、学校外での教育・補習などにおいて、大学入学試験を目ざして激烈な競争が行われて来たわけであります。
最近は大学の世界、学問の世界にも競争の概念が持ちこまれて来て、大学の教育・研究活動を外部から評価し、それに応じて予算配分をしようといったことが検討されています。適切な評価に基づく健全な競争はよいのですが、そうでない場合や過度の競争が多くの弊害をもたらすことは、例をひくまでもなく明らかなことであります。アルフィ・コーンは1986年の著書「競争社会をこえて」において競争の弊害をくわしく論じ、そのエネルギーを相互協力の方向に向けるべきことを論じております。これは単に教育の分野だけでなく、研究社会から一般社会、企業活動を含むあらゆる分野について適用される社会理論であると言えます。たとえば著者は、「健全な競争」という言葉のもつ矛盾をも鋭く指摘しています。我々はまさに競争という次元を越えたところに視線を定めるべきでありましょう。
学問研究は研究者の発想と意欲によって自由に行われるべきものであります。競争の時代だからといって、他の研究者の研究よりも進んでいて、他人よりも良い成果をあげるといった相対的な軸で考えるのではなく、学問の発展に対してどのように貢献しているかという絶対的な軸によって、研究を行ってゆくのが本来の姿でありましょう。そうでなければ、新しい研究分野、学問分野を切り開くといったことはできません。
京都大学は、21世紀の地球社会が直面する困難な諸課題に対して真剣に取り組むべく、新しい研究科を幾つも作って来ましたが、こういったことは今述べました学問発展の絶対軸の考え方に基づくものであります。そして我々の視野は、単に人間社会だけでなく、他の生物、無生物を含む地球社会全体の調和ある共存にまで広げられ、京都大学における諸学の教育研究は常にそのことを念頭におき、それを実現すべく努力するところにあることを宣言しました。これは京都大学の基本理念および環境憲章に表されているものであります。
これからは量の時代から質の時代への転換が行われてゆくでしょう。数値で測られる時代から、簡単には数値化できない物事の価値を重視する時代になってゆくでしょう。そして、グローバル社会の時代であるからこそ、逆にまた文化多元的世界というものの価値をより一層認識し、自分の持っている価値観だけで物事を裁断してはいけない時代となってきているのです。そこではお互いに相手の存在と価値を認め、共存するということしか解決の方法はないわけであります。
修士の学位を得て社会に出てゆく皆さんも、京都大学で学んだこと、京都大学が持っている考え方や精神を忘れることなく、それぞれが自分の道徳観、人生観を確立し、それを堅持して、これからの波乱万丈の時代を生きてゆくことが大切であります。皆さんにはそういった人間としての強さ、勇気が求められているのであります。それぞれの人がこうして努力してゆくことによって、日本の社会が個人の尊厳をさらに高めるとともに、全ての人にとって住みよい社会を実現してゆくというところにつながってゆくでしょうし、またその努力によって世界全体の調和ある共存という理想に少しでも近づいてゆくことになると存じます。
努力することによって将来に希望をもつという信念を持って、社会に出て行って下さることを希望し、私のご挨拶といたします。