所蔵資料検索システム(京都大学大学文書館)

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その他の記録

オリンピックオーク

1936(昭和11)年のベルリンオリンピック三段跳びで、京都大学をその春に卒業したばかりの田島直人が世界新記録で金メダル、同じく原田正夫が銀メダルを獲得しました。このオークは、田島がその時に持ち帰った苗木を植えたものです。根本には2001年に陸上競技部蒼穹会による記念碑があります。( オリンピックオークの伐採について

当初の個体は平成20(2008)年夏にカシノナガキクイムシの被害(いわゆるナラ枯れ)に遭い、枯死してしまったため、同年12月に伐採されました。かつて農学部演習林職員らの手により、グラウンドのオリンピックオークの萌芽から採取し、育てられたとされるヨーロッパナラが北部構内の北白川試験地に2個体あり、井鷺裕司 農学研究科教授らによる遺伝子解析の結果、枯死した個体と同じ遺伝子を持つことが確認されました。平成27(2015)年2月に1本を元の木が植えられていた場所に移植したほか、もう一方の個体からの種子が発芽した実生も同地に移植しました。

2004(平成16)年7月撮影
2004(平成16)年7月撮影
2004(平成16)年7月撮影
2004(平成16)年7月撮影
2015(平成27)年11月撮影
2015(平成27)年11月撮影

原爆災害調査班の活動と遭難

調査班が本拠地とした大野陸軍病院
1945(昭和20)年8月6日広島に原子爆弾が投下され、多くの人々が被爆した。 当時大野村では、この地に隣接して約800人を収容する大野陸軍病院があり、その中央の病棟に約100人、また国民学校(現大野西小学校)に約1500人の被爆者が収容されていた。
8月27日中国軍管区司令部から原爆被爆者災害の調査と早急なる対策樹立の為に研究員派遣の要請を受けた京都大学は、直ちに医学部の教授陣を中心とし、理学部物理学者を加えた研究班を組織して来広した。9月3日からこの大野陸軍病院に本拠を置き、診療・研究を開始した。
山津波で倒壊した大野陸軍病院
ところが9月17日この地方を枕崎台風が襲い、同夜10時30分頃、山津波が起り、一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ山陽本線を越えて海中に押し流した。
このため同病院に入院中の被爆者の殆んど全員と職員合計156人の尊い生命が奪われた。この中には日夜原爆への対策、調査、研究に献身した、京都大学 真下俊一教授(内科学)、杉山繁輝教授(病理学)以下研究班員11人の殉職者が含まれていた。
調査班遭難者の大学葬
1945年10月11日、時計台2階大ホールで執り行われた。
京大原爆災害調査班遭難記念碑
1970(昭和45)年9月建立
京大原爆災害調査班遭難記念碑
記念碑由来説明板
記念碑の説明:
第60回京都大学原爆災害総合研究調査班遭難者の慰霊の集いを開催(2005年9月17日)
京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑

アウン・サン・スー・チールーム

アウン・サン・スー・チールームは、アウン・サン・スー・チー 名誉フェローが1985年10月1日から1986年3月31日まで本学東南アジア研究センター(現 東南アジア地域研究研究所)外国人研究員として滞在していたときの研究室です。

※現在は、非公開となっています。

プレート
アウン・サン・スー・チールームについての説明
滞在時のお写真
滞在時のお写真と芳名録
同ルームを訪問されたアウン・サン・スー・チー ミャンマー国民民主連盟議長(当時)
2013年4月15日撮影
本学でアウン・サン・スー・チー 議長の講演会を開催した際に訪問されました。本学東南アジア研究センター滞在時以来、27年ぶりの来日でした。