公衆衛生学というのは、医師だけでなく保健師・看護師・助産師・理容師・美容師など国家試験資格取得の際には必須科目です。そもそも公衆衛生学の歴史は、 1800年代、イギリスで労働階級の生活を守るため、医学とごみ処理、水道の整備などの環境衛生問題を解決する衛生工学を融合させて住居の中を衛生的に暮らせるようにした行政施策が始まりだそうです。それがアメリカに渡り、1916年に現在の公衆衛生学大学院「School Of Public Health」が作られ、日本へ持ち込まれてきたとのこと。中原教授に公衆衛生学の全体像をお聞きしました。
「公衆衛生学の特徴とは」
公衆衛生というのは、元々は環境衛生に始まり、そこから健康を守る保健活動へと広がっていきました。廃棄物処理、上下水道の整備などの対策から人々の健康を維持向上していくための活動へと拡大発展を遂げ、日本でいう保健所の活動から保健医療福祉を包括した活動へと発展している。このような活動の専門職を養成するために、20世紀に入りアメリカで、「School Of Public Health」が作られることとなる。
「公衆衛生の対象領域は広く、結核などの疾病予防・学校や職場、地域での健康診査・がん検診・鳥インフルエンザ・アスベスト問題などの対策全てが公衆衛生学に含まれます。」と中原教授。それぞれの対策をどうするのかを検討する活動が公衆衛生の全体像となり、公衆衛生学が対象とする領域となる。
「たばこを吸う人が肺癌になる率、心筋梗塞を起こす率は非常に高い。」
中原教授はこれらを健康政策といい、「個々別々の対策を考えるのも重要だが、それのみではなく、どういう制度にすれば、あるいはどういう仕組みを作れば、問題が起こらないか、あるいは問題が起きてもすぐに発見でき、対処できるのか、というのをテーマにしています。」たとえば、たばこについてWHO(世界保健機関)が、喫煙による健康被害の防止を目的とした「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」を定めた。日本の財務省(旧大蔵省)はたばこ税を財政的に捨てたくないことや、歴史的には軍隊でたばこの配給があり、特別なものとして扱われてきたことなども、原因として考慮すべきことではあるが、我が国のたばこの規制は世界的にみて大きく遅れてしまっている。たばこが健康に悪いというのは、疫学的には既に分かっていることである。疫学的に肺癌になった人がたばこを吸っていたかどうかを調べると、明らかにたばこを吸っていた人が多いし、喫煙者が心筋梗塞に罹かる率は非常に高いという結果から考えると、たばこ対策は是非必要なことである。ところが日本では、たばこは法律上財務省の所管とされ、健康面からの規制が進まない状況にあった。
「たばこによる超過医療費削減と疾病予防による医療費削減」
そこで、中原教授は以前、たばこによる超過医療費つまりたばこをやめたらどのくらい医療費が削減できるかという観点で論文を発表された。たばこをやめることで健康度が上がり、医療費が下がる。そこに大きな注目が集まり、2006年4月から診療報酬の改定で禁煙指導に保険点数がつくこととなった。どうしたらやめることができるかを指導するいわゆる「禁煙外来」は、京大病院などにおいては以前から実施されていたが、ニコチンパッチやニコチンガムを使用してニコチン依存症から脱するようにもっていくことは個人一人の努力ではなかなか難しいが、医療として指導していくことは決して難しいことではなく、現在では全国の多くの医療機関で実施されるようになってきた。このように対策が進むようになった背景には、明らかに医療費適正化・削減の問題があると、中原教授は指摘する。
厚生労働省は今、保健所や市町村の保健センターがやってきた保健活動を、大号令をかけて医療費の適正化・削減という方向に結び付けようとしている。そこで、今注目されているのが「メタボリック・シンドローム」いわゆる内臓脂肪症候群である。内臓に溜まった脂肪による肥満の影響、高脂血症、高血糖、高血圧などを総合的に扱っていく。それぞれをターゲットとしてみると、決してひどい状態ではないが、複合していると大きな問題になってしまう。糖尿病を中心に、これから取り組んでいくべき課題である。
「どうしても生きがいづくりとか、そういう話になりますね。」
病気の怖さなどマイナス面ばかり強調する住民教育から脱却し、健康度の向上・健康寿命の延長というプラス方向へと導く「ヘルス・プロモーション」を推し進めることは、公衆衛生学では重要な課題である。2000年に策定された「健康日本21」では、オタワ憲章で提唱された「ヘルス・プロモーション」の考え方で、どこを重点に活動すれば、どれくらい健康を改善できるかという考え方を打ちだして、保健活動の指標としている。「だからどうしても生きがいづくりとか、そういう話になりますね」と中原教授。
そして、このことを現代社会で実行していくためには「医学だけでなく、統計・疫学・倫理など各方面に精通した方で、公衆衛生学(Public Health)の専門家を養成することが重要である」と中原教授はいう。医学だけでなく、経済分析であれば経済学部出身、遺伝子解析であれば理学部出身、倫理の問題を検討するなら文学部・法学部出身など各分野のエキスパート集団が形成され、協同して課題に対処することが望まれる。医療関係の資格を持っていない人が入学してきて修士を取り、このような方面で活躍する。欧米では、公衆衛生学大学院が医学部から独立して発展してきたので、珍しいことではないが、日本では全く新しい動きである。公衆衛生学の人材養成では欧米に比べ遅れているという感の否めない日本において、医者だけではなく、各分野の専門スタッフで構成した公衆衛生学の専門家集団の育成を目指したいと語っていた中原教授から、今後の活動の広がりに大きな期待を持たずにはいられない。
取材日:2006/4/21
Profile
医学博士であり、公衆衛生学修士である中原 俊隆(なかはら としたか)教授は、京都大学医学部を卒業し、医師免許・博士号を取得。その後、ジョンス・ポプキンス大学の公衆衛生学修士課程を卒業されました。日本では、必ずしも認知度の高くない公衆衛生学に独自の特色を取り入れて、それまでのご自身の教室名を「公衆衛生学」から「健康政策・国際保健学」という名前に変えられました。大学院だけでなく、医学部保健学科の講義や、最近では奈良女子大学をはじめ、その分野で各大学の非常勤講師を勤められるなど、多忙な日々を送られている中原先生に公衆衛生学とその教育研究の役割についてお話を伺いました。