聴講講義: Families and Work in Post-war Japan
- 学生は、戦後日本の会社、農村、家族についての現地調査を踏まえた著作を講義外で購読し、講義ではそれらについて話し合います。先生含め参加者全員が輪になって座り、学生は自らの日本経験やアメリカとの比較を語ります。講義の第一回目に、講師のノース先生は「特定の個人の発言を否定するような議論にはしない」よう我々学生に念を押されました。我々は、先生の忠告に違わず、「学術的に正しい内容」よりも「議論の場を刺激する内容」を優先して口にしたように思います。そうした発話しやすい雰囲気は、先生の学説史的説明(社会学者の学説等について)と相まって、むしろ「学術的」でした。なぜなら、ある講義が「学術的」かどうかは、そこで扱われる内容が高度かどうかではなく(実際は高度な内容も話されましたが)、講義の「場」がまだ知り得ぬことがらについて開かれているかどうかによって示されるからです。学生の自由な発話で講義が進むという日本的ではない形式で、「日本的なるもの」に近づいていく、というやり方は、日本で育った私にとって大変スリリングでした。予習は私の理解能力の低さゆえにさばき切れませんでした。一週間で100ページを超える予習は、それが日本についてのテクストであったこともあり、繰り返し日本的なものについての描写に出会うという意味で、「筋トレ」に近いものでした。短期間に集中的に読むので肉体的に疲れますが、日本社会に対する見方の訓練になりました。(法B2)
- 毎週100ページ程度のリーディングとそれに関するA4用紙1枚程度のコメントの提出が課題として求められました。普段京都大学で授業を受けていたら経験することのないような量だったのでこなすのが大変でしが、提出したコメントを先生が翌週の授業で返却してくれるのですが、一人ひとりに対してとても丁寧にコメントが添えられていて、励みになりました。
授業では、その毎週のリーディングの範囲に関するディスカッションをしました。1セクション毎に担当者が割り当てられ、その担当者が要約とその内容についてのクラスへの問いを発表した後、議論が行われるという流れでした。堅苦しい雰囲気ではなく、みんなが椅子を円形に配置し、時折笑いが起きるような和やかな雰囲気で授業が進み、楽しんで参加することができました。話すペースが速く、なかなか自分から発言することができなかったのは残念でしたが、先生や生徒が日本人学生に向けて質問をすることもあり、そのようなときは特に積極的に発言することができたと思います。
Final paperはA4用紙10ページ以上でしたが、最終的な提出の1ヶ月半程前にテーマと大まかな内容の提出日、1ヶ月程前に最終形に近づけたものの提出日が設定されており、段階的に進められるように配慮されていました。(総人B2)