聴講講義: Kyoto Houses and the Japanese Lifestyle

聴講講義: Kyoto Houses and the Japanese Lifestyle

 講義はシラバスの通り実施され、骨のある授業を受けることができた。日本の大学だと等閑になりがちなディスカッションがKCJSの講座では実践されており、弁証法で考えを発展させていくアカデミーの雰囲気が確かに存在した。そのため一つ一つの授業が印象深く記憶に根差しており、ここで与えられた学を忘れることはそうそうないと思う。その印象のつよさは、反面、学生に負担を強いるから起こるものかもしれないが、そもそも日米の学生を問わず、負担は誰にでも平等に課されるものなので、負担を不満に思ったことはない。
  英語を第一言語にもつ人たちとふれるのは、今回が初のことだった。多少とも瞠目したのは、国際的に活用されている英語と比べ、彼らアメリカ人の音や言葉遣いはずいぶんと異なる点で、さなきだに非英語圏の英語しか知らないような学生にとり、彼らの言葉への適応は少しく時間を要することだった。
  授業内では学生同士の会話に一種の緊張の糸があり、それを紡ぐようにして議論は発展していく。そうした光景は日本の大学ではまま見出し得ないかもしれない。しかし、そうした緊張がありつつも、フィールドトリップなどで屋外に出れば、緊張から解放され、誰もが伸びやかになる瞬間があった。
  教室での会話は知性を、屋外での会話は親交を、それぞれ深めるものだろう。教室の空間の外にも、たとえばフィールドトリップのように、外の空気のもと健やかに学問をする場が確保されていれば、交流はやがて深化し多面化していくと思う。
  今期は所属研究科で5科目の授業を履修していたため、自研究科の講座と並行しての出席にはそれなりの負担はあった。これは努力次第で解決される問題だが、同時に、フィールドトリップの日程が通常の授業時間帯と異なる場合があり、自研究科の授業とバッティングして、どちらか一方を選ばざるをえないことが2回ほどあった。具体的には、フィールドトリップの時間が相前後して、自研究科の授業時間に食い込んでしまうこと。開催日程そのものがスケジュールと異なることなどである。この後者に関しては、表千家の見学に際し日本人の引率が必要だったことによる。普段は訪れる機会がない場所であり、個人的には稀少な訪問の機会を賜ったわけだが、自研究科の院生としての立場が喚起されると、多少とも後ろめたい気持ちがよぎることもあった。こうした授業時間の変則性については、事前説明会や配布資料において十全な注意喚起が必要だと思う。(人環・M1)