2012年9月25日
左から竹下教授、平田特定准教授、酒井研究員
人類の脳の大きさは、ホモ(Homo)属の登場以降、急速に拡大しました。とくに大脳は、ほかの霊長類にくらべて、かけ離れて大きく発達してきました。酒井朋子 霊長類研究所研究員、平田聡 同特定准教授、竹下秀子 滋賀県立大学教授らの研究グループは、株式会社林原 類人猿研究センター(岡山県玉野市)との共同で、世界で初めてチンパンジー胎児の脳容積の成長パターンを明らかにしました。その結果、ヒトの脳の成長が妊娠後期まで加速し続けるのに対して、チンパンジーの場合は妊娠中期に成長の加速が鈍ることが分かりました。このことは、胎児期の段階ですでにヒトとチンパンジーの脳容積の成長パターンが異なり、ヒトの脳の巨大化は胎児期からスタートしていることを示します。
この研究成果は、2012年9月24日(アメリカ東部標準時間)に、Cell Pressの出版誌であるCurrent Biologyの中で報告されました。
研究の概要
人間のこころや行動の基盤を理解するうえで、脳の進化の過程をたどることが重要です。ヒトで顕著な脳の巨大化の進化的基盤を探るためには、成人における脳形態の特徴を調べるだけでなく、その発達過程を明らかにすることが必要不可欠です。
1950年ころから、ヒトの脳の巨大化の発達的メカニズムを解明し理解しようという機運のもと、霊長類の死後脳標本や頭蓋骨標本を用いて、ヒトとヒト以外の霊長類を比較する研究がおこなわれてきました。その中で、さまざまな仮説が唱えられています。近年では、生後だけでなく出生前の脳の発達様式もヒトの脳の巨大化に起因するという説が有力です。
しかしながら、ヒト以外の霊長類の胎児期における脳の発達変化を、母胎内の赤ちゃんで調べた研究はほとんどありません。とくに、ヒトと最も近縁な現生霊長類種であるチンパンジーの胎児期の脳容積の成長に関する情報は、これまでまったく得られていませんでした。このため、現在に至るまで、胎児期におけるヒトの脳の発達様式が、ヒト以外の霊長類とどの程度異なり、どのように脳の巨大化を促進するかについて、具体的に検証することには大きな限界がありました。
そこで、私たちは、3次元の超音波画像診断法を用いて、株式会社林原 類人猿研究センターのチンパンジー胎児を対象に、妊娠14週から出生直前までの胎内での脳容積の成長変化を縦断的に調べ、ヒト胎児の場合と比べました(図1、図2)。
図1 3次元超音波画像診断法によるチンパンジー胎児の脳画像の撮像
株式会社林原 類人猿研究センターで、母親チンパンジーであるミズキが妊娠21週のころに、その子どもであるイロハの頭部の撮像をおこなったときのようす。ミズキは普段と変わらずリラックスした状態で撮像にのぞんでいました。撮像者たちは長年にわたり母親チンパンジーと深い信頼関係を築いているため、ヒトの妊婦と同じように、母親チンパンジーにおいても、麻酔なしで超音波撮像をおこなうことに成功しました。
図2 チンパンジー胎児における脳容積の拡大
チンパンジー胎児(イロハ)の妊娠14週、21週、30週における3次元の超音波脳画像。上段はチンパンジー胎児の前額面の脳画像、下段はチンパンジー胎児の3次元の脳再構築画像を示します。
その結果、チンパンジー胎児の脳容積は、妊娠16週の時点でヒト胎児の半分の大きさであることがわかりました(図3)。そして、ヒト胎児とチンパンジー胎児には、さらなる大きな違いもありました。ヒト胎児では、脳容積は妊娠32週ころまで急速な増加が続きますが、チンパンジー胎児では成長パターンが異なることが見出されました(図4)。チンパンジー胎児の脳容積は、妊娠17週から妊娠22週ころまではヒト胎児と同じような成長速度を示すものの、妊娠22週ころにおいて成長速度の増加が頭打ちになりました。妊娠32週の時点で、脳容積の成長速度はヒト胎児では26.1cm3/週なのに対し、チンパンジー胎児ではわずか4.1cm3/週でした(図4)。チンパンジーの脳容積は、妊娠中期以降、ヒトほどには著しく拡大しないことがわかりました。
図3 チンパンジーとヒトの胎児における脳容積の拡大
本研究で求めたチンパンジー胎児の脳容積の成長パターンを、先行研究で報告されているヒト胎児の成長パターン(Roelfsema et al. 2004)と比べました。その結果、チンパンジー胎児の脳容積は、妊娠16週の時点ですでにヒト胎児の半分の大きさでした(チンパンジー胎児 15.8cm3;ヒト胎児 33.6cm3)。マジェンダ色の実線はチンパンジー胎児の成長モデル曲線、青色の実線はヒト胎児の成長モデル曲線を示します。マジェンダ色の細い線は95%の信頼区間を示します。グラフの下にあるマジェンダ色と青色のカラーバーは、それぞれチンパンジーとヒトにおける妊娠期間(受胎日基準)を示します。
図4 チンパンジーとヒトの胎児期における脳容積の成長速度
図3のチンパンジーとヒトの胎児期における脳容積の成長モデル曲線から、それぞれの成長速度を求めました。その結果、チンパンジーの脳容積は、妊娠中期以降、ヒトほどには著しく成長しないことがわかりました。チンパンジー胎児の脳容積は妊娠17週から妊娠22週ころまで、ヒト胎児と同じような成長速度を示すものの、それ以降高い成長速度を示しませんでした。妊娠22週時点では、ヒトとチンパンジーの成長速度はそれぞれ14.9cm3/週、11.1cm3/週でした。しかしながら、妊娠32週の時点になると、ヒト胎児では26.1cm3/週に対し、チンパンジー胎児ではわずか4.1cm3/週でした。マジェンダ色の実線はチンパンジー胎児の脳容積の成長速度、青色の実線はヒト胎児の成長速度を示します。グラフの下にあるマジェンダ色と青色のカラーバーは、それぞれチンパンジーとヒトにおける妊娠期間(受胎日基準)を示します。
以上のことから、ヒトの脳の巨大化は胎児期からすでにスタートしていると言えます。胎児期の後期まで脳容積の成長が加速し続けるという発達様式は、ヒトの祖先がチンパンジーとの共通祖先から分かれた後、ヒトにおいて独自に獲得したものであることが示唆されます。つまり、私たち現生人類は、急速な脳の成長速度を在胎期間の終わりまで持続させることで、脳容積の拡大を促進していると考えられます。
このたびの私たちの研究は、人類進化学に新たな見解を投げかけることになりました。ヒトのヒトらしい発達は、胎児期にすでに始まっています。子どもたちの健やかな育ちの実現のために、出生後だけでなく胎児期にも目を向けることの重要性が生物学的観点からも示されました。
論文情報等
書誌情報
[DOI] http://dx.doi.org/10.1016/j.cub.2012.06.062
[KURENAIアクセスURL] http://hdl.handle.net/2433/160032
Sakai T, Hirata S, Fuwa K, Sugama K, Kusunoki K, Makishima H, Eguchi T, Yamada S, Ogihara N, Takeshita H. Fetal brain development in chimpanzees versus humans. Current biology, 22(18), R791-R792, 2012/09/25.
研究代表者
酒井朋子 霊長類研究所研究員、平田聡 同特定准教授、竹下秀子 滋賀県立大学教授の3名
※平田特定准教授は2011年8月まで株式会社林原 類人猿研究センター(岡山県玉野市)に主任研究員として在籍しました。本研究におけるチンパンジー胎児を対象とした実験は、株式会社林原 類人猿研究センターにておこなわれました。
本研究成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
- 日本学術振興会科学研究費補助金 基盤研究 (A)
研究課題名:「胎児期からの母子コミユニケーシヨン―胎内聴覚経験とクロスモダル知覚の比較発達研究」(課題番号:20330154)
研究代表者:竹下秀子(滋賀県立大学人間文化学部 教授) - 日本学術振興会科学研究費補助金 若手研究 (B)
研究課題名:「大型類人猿における自己と他者の理解およびその相互連関に関する比較研究」(課題番号:20680015)
研究代表者:平田聡(当時、株式会社林原 生物化学研究所類人猿研究センター 主任研究員) - 日本学術振興会特別研究員奨励費 (DC2)
研究課題名:「ヒトの脳の進化的基盤:胎児期からたどる大脳化の由来」(課題番号:#21-3916)
研究代表者:酒井朋子(当時、理学研究科 大学院生) - グローバルCOE(6)
研究領域名:「生物の多様性と進化研究のための拠点形成-ゲノムから生態系まで」
研究代表者:阿形清和(理学研究科 教授) - 文部科学省最先端研究基盤事業
研究領域名:「心の先端研究のための連携拠点(WISH)構築」
研究代表者:松沢哲郎(霊長類研究所 教授) - 特別経費プロジェクト
研究領域名:「人間の進化の霊長類的起源に関する国際共同先端研究の戦略的推進:人間の本性と心の健康を探る先端研究」事業
- 京都新聞(9月25日 25面)、産経新聞(9月25日 26面)、中日新聞(9月25日 29面)、日刊工業新聞(9月26日 22面)、日本経済新聞(9月25日 16面)、毎日新聞(9月25日 28面)および読売新聞(9月25日 31面)に掲載されました。