令和3年度大学院秋季学位授与式 式辞(2021年9月24日)

第27代総長 湊 長博

湊総長 本日、京都大学から修士の学位を授与される95名の皆さん、修士(専門職)の学位を授与される2名の皆さん、博士の学位を授与される229名の皆さん、誠におめでとうございます。

 学位を授与される皆さんの中には、170名の留学生が含まれています。累計すると、京都大学が授与した修士号は85,945名、修士号(専門職)は2,177名、法務博士号(専門職)は2,519名、博士号は46,655名となります。教職員一同とともに、皆さんの学位取得を心よりお祝い申し上げます。

 昨年はじめからの新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの中で、皆さんは学位研究の重要な期間を過ごされてきました。大学での学術研究活動も大きな制約を受けざるをえないという困難な状況下にもかかわらず、皆さんが各自の学位研究を貫徹、修了され、今日の日を迎えられたことに対し、大いに敬意を表すると共に心からお祝いを申しあげます。本日から皆さんは、正式に京都大学大学院の学位保持者ということになります。これから皆さんは、引き続きアカデミアの世界で、あるいは実社会において、新たな道を歩まれるわけであり、今回の学位の授与は到達点であると同時に、新しい出発点であるということができるでしょう。

 さて、「学位を与える教育課程としての大学院」という教育制度を世界で初めて創設したのは、19世紀後半のアメリカのジョンズ・ホプキンス大学でした。これは、急速に発展してきた科学技術が、市民生活はもちろん世界の政治や経済にもきわめて大きなインパクトを持ち始めてきたことを背景に、教養中心の学部教育を修了した大学卒業者を対象として、より高度で専門的な学術研究を可能にする教育課程としてつくられたものです。その後19世紀末までには、大学院制度はハーバード大学、コロンビア大学、シカゴ大学などアメリカ全土に広がり、やがて全米で毎年まとまった数の学位取得者が生まれることになります。20世紀以降、アメリカが世界の学術・研究に主導的役割を果たしてきた背景には、学位を授与する大学院制度の確立と、そこに世界各地から集まった優秀な大学院生が最先端の研究に従事してきたという事実があったと言えます。我が国でアメリカ型の「学位を与える教育課程」としての大学院が制度化されたのは、戦後の学校教育法制定によるものであり、1953年に国立大学に新制大学院が設置されました。これによって学位は、大学院での特定の学術領域における学識と業績に基づく審査を受け、大学が自らの責任において授与することになったわけです。これ以前にも「末は博士か大臣か」といわれたことがあるように、栄誉称号的色彩の強い博士学位というものは我が国にもありましたが、現在のような教育課程に基づく学位は、アメリカに比べてまだ歴史が浅いと言えます。

 アメリカでは20世紀半ば以降、それまで主に名門や富裕な家庭の子弟を受け入れてきたアメリカの主要な大学が、教育の機会均等を掲げて奨学金制度を充実させ、出自や経済力にかかわらずその能力・実力によって学生を受け入れるようになりました。やがてこのような極めて競争性の高い大学において高等教育を受けたthe Best and the Brightest「最良の、最も聡明な人々」が、アカデミアのみならず政治や経済など社会の広範な領域において中心的・指導的役割を担ってきたという歴史があります。大学院課程における高度な専門的修練を経た学位保持者は、このような高学歴エリートの頂点にあったわけで、アメリカで学位がパワーエリートの必要条件と考えられてきたのは自然であったのかもしれません。他方で最近、ハーバード大学のマイケル・サンデル(Michael Sandel)教授がその著書『能力の専制(The Tyranny of Merit)』の中で、高学歴者にひろく浸透している能力主義Meritocracyの行き過ぎた負の側面について論じています。それは、これらの最高学歴者が、その出自や境遇の幸運によってではなく、自らの能力とたゆまぬ努力でそのメリットを掴んできたという自負心を抱いているため、大多数の市民へのエンパシーの喪失や、公共益への貢献という使命感の希薄化を彼らにもたらしているのではないかという懸念です。

 しかし、サンデル教授の指摘する「行き過ぎた能力主義Meritocracy」に対する懸念は、現在の我が国では、必ずしも当てはまらないように思います。我が国ではむしろ、皆さんのような学位保持者が、本来それにふさわしい評価を十分には与えられていないのではないかとさえ私は感じています。これは、社会環境や大学院などの高等教育の成り立ちの違いによるものかもしれません。しかしそのことを踏まえた上で、高度な教育と修練を受けた人々の真の能力はどう評価できるのか、というサンデル教授の議論は重要であると思います。サンデル教授は著書の中で、「我々が人間として最も充実するのは、共通善Common goodに貢献し、その貢献によって同胞である市民から評価される時であり、人々から必要とされることである」と述べ、これを貢献的正義Contributive justiceと表現しています。つまり、高等教育によって修得されてきた専門的な学識や科学的リテラシーにより、多数の市民へのエンパシーをもって公共益に貢献できることが、真の能力(merit)と言えるのではないかと言うわけです。同様に、ロンドン・ビジネス・スクールのアンドリュー・スコット(Andrew Scott)教授は、「100年時代の人生戦略」を『ワーク・シフト』の著者リンダ・グラットン(Lynda Gratton)と共に論じた「The 100-Year Life」のなかで次のように述べています。“What will separate people is not what they know, but rather what they have experienced using this knowledge.”つまり、人の価値を分けるのは、その持っている知識ではなく、知識を駆使して何をなしてきたかにあるというわけです。皆さんの真価は、様々な学術の専門領域で培われてきた学識や科学的リテラシーを駆使して、これから皆さんがどのような働きをされていくかにかかっていると言えるのかもしれません。

 もちろん、これまでの皆さんの本学での学位論文執筆の原動力となってきたのは、未知への探究心や創造への意欲であったと思います。科学や学術などの公共益への貢献とは、必ずしも目先の生活に直接役立つという意味ではありません。とくに本学の大学院課程で、皆さんがくりかえし言われてきたことのひとつは、独創性ということではなかったでしょうか。昔から「必要は発明の母である」と言われますが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のジャレド・ダイアモンド(Jared Diamond)教授は、新しい画期的な技術や有益な手法は独創的な科学を基礎に生まれるものであり、歴史的には「発明こそが必要の母」であったと言っています。さらにノーベル物理学賞を日本で初めて受賞した湯川秀樹本学名誉教授は、その著書『詩と科学』の中で、こう述べておられます。「理論物理学者の創造的活動の中で一番大切なのは、ある観点から見て不合理と思われる事柄の奥底にある合理性を見つけだすことである。そのためには、新しい観点へ飛躍的に移ることが必要であった。はじめから合理性のはっきりしているような対象ばかりあつかっている限り、一番大きな創造力の発揮される機会はないのである。」湯川先生を始めとする20世紀の物理学の巨人たちは、量子力学という新しい世界を切り開きましたが、21世紀の今日、そこから発想された量子コンピュータは、いまや情報社会に革新をもたらしうる技術になりつつあります。

 学位保持者に期待される資質には、その学術領域を問わず共通した要件があると思います。特に重要なのは、広汎な教養、正確な知識と技術、論理的な研究遂行のリテラシーを基礎にして、困難な課題に創造的に立ち向かう姿勢でしょう。現在私達は、気候変動と大規模災害、感染症パンデミック、グローバルな人口・食料問題、相対的貧困を含む様々な社会的格差、先進国の少子高齢化など、数多くの人類的課題に直面しています。これらはすべて、極めて複雑で不確実性が高く、かつその意志決定に非常に多くの利害が関与してくる事象であり、その解決には、学術の領域を問わずあらゆる方向からのアプローチが必要でしょう。かつて哲学者のイマヌエル・カント(Immanuel Kant)は『純粋理性批判』の中で、「哲学は学ぶことができない、哲学することしか学ぶことができないのだ」と述べ、「哲学する」こととは、「理性の才能を目前の試行に即して修練する」ことであると言っています。厳しい学位研究の中で皆さんは、「科学する」ことによって「理性の才能」を目の前の実験や調査の中で鍛えてこられたわけです。こういう大きな変化の時代であるからこそ、「科学する」ことを学んでこられた、つまり理性の修練を重ねてこられた皆さんのような人材を、社会は必要としているはずです。たとえ遠い道のりであっても、皆さんがその学識と創造的思考力によって地球環境と国際社会に貢献していただくことによって、我が国における学位の評価も確固としたものになってくるでしょう。

 これから皆さんは、社会の様々な任地へ向けて旅立ちをされます。繰り返しますが、学位の授与は、到達点ではなく新しい出発点です。新しい世界で、これまでの修練で培われた力を遺憾なく発揮して活躍されることを、心から期待し応援して、お祝いの言葉に代えたいと思います。

 本日はまことにおめでとうございます。