物質-細胞統合システム拠点(iCeMS=アイセムス)拠点長の中辻憲夫 教授は6月16日(水曜日)、米歯学専門誌ジャーナル・オブ・デンタル・リサーチ(※1)オンライン速報版に、論説「ヒト多能性幹細胞株のバンキングは臨床応用に役立つか?(※2)」を発表しました。
本論説は、同じく6月16日同誌オンライン速報版に掲載された、人工多能性幹(iPS)細胞バンキングにおける歯髄細胞利用に関する論文(※3)に関連して、中辻教授が同誌編集主幹より寄稿を依頼されたものです。臨床応用を目指すにあたっての課題と展望を、多能性幹細胞株のバンキング構想を一つの切り口として論じています。
論説参考訳
今月号において、タマオキらは抜歯で得た歯髄細胞からのヒト多能性幹細胞株の樹立を報告している。著者らはこのような入手容易な細胞源から多様なHLAタイプのヒトiPS細胞株のバンクを構築する興味深い可能性を提示しているが、特に、移植免疫においてもっとも重要なHLAの3座についてホモ型である提供サンプルが存在したことを報告している。
HLAタイプを取りそろえたヒトES細胞株のバンク構築の可能性については、最初にTaylorらによって英国民におけるHLAタイプの分布にもとづいた計算結果が報告された。その後、我々は通常のヒトES細胞または単為発生胚からのES細胞株のバンキングの可能性について、日本人集団について解析した結果を報告した。ヒトiPS細胞株の樹立が山中伸弥 iPS細胞研究所長らによって報告されたのち、我々はHLA3座についてホモ型の個人から提供された体細胞からヒトiPS細胞株バンクを構築する可能性について報告した。予想では、約200株のヒトES細胞株のバンクは80%の日本人に部分的なマッチングを実現する。すなわち、重要な3座のうち2座についてはマッチングする細胞株を見つけることができるはずである。さらに、もしHLA3座についてホモ型であるヒトES細胞株またはiPS細胞株を集めたバンクを構築できれば、50株だけでも80-90%の日本人について3座全てのマッチングが可能になる。なぜならば、ホモ型の細胞株は通常のヘテロ型細胞株よりも広いHLAタイプマッチングを可能にするからである。
この新しい報告は、このようなヒトiPS細胞株バンクを構築するためのホモ型をもつ提供者を見つけることが実際に可能であることをしめしている。この論文に先立って、中国において約200株のヒトES細胞株を余剰胚から樹立したところ、予想通り多くの部分的マッチングが中国人集団について可能になったという論文が出版されている。単為発生胚由来のES細胞株というもうひとつの可能性については、マウス卵子を用いた実験が行われた。この場合、多くのホモ型のES細胞株を作れるが、ゲノム刷り込みを受ける遺伝子に関しては、母親由来だけになるので、通常の体細胞とは異なるエピジェネティクスをもつことになる。
ヒト多能性幹細胞株のHLAタイプバンキングの概念は、細胞治療についての多方面の考察から生まれた。多くの患者が実際の恩恵をうける治療を実現するためには、医療システムにおけるコスト効率や実施可能性についても、安全性や品質管理と同様に考慮する必要がある。このような実際の臨床に役立つ細胞治療を考えれば、個々の患者から品質管理されたiPS細胞株を樹立したのち、個人対応した細胞治療に必要な安全性検定された細胞を調整することは、それに必要なコストと日数の大きさから考えて非常に困難である。
ヒト多能性幹細胞の重要な能力は癌化することなく無制限に増殖可能なことである。この能力を使えば、多人数の患者を治療するための品質管理された各種分化細胞を大量生産によって十分量作り出すことが可能である。もうひとつの観点は、移植治療における免疫拒絶反応は、免疫抑制剤投与によって制御可能であり、治療を不可能にするものではない。そうでなければ、広く行われている臓器移植は実施不可能のはずである。
HLAタイプのバンキングに用いる細胞タイプとしては、余剰胚提供によるヒトES細胞株、卵子提供による単為発生胚由来ES細胞株、提供された体細胞から作られたヒトiPS細胞株、HLA3座などをホモ型にもつ個人から提供された体細胞由来のiPS細胞株がありうる。もうひとつは、精原幹細胞由来のmGS細胞株であるが、この場合はヘテロ型が多く、刷り込みを受ける遺伝子座のエピジェネティクスも異常だろう。
表1は、5種類の多能性幹細胞株からHLAタイプバンクを作った場合の比較を示す。HLA座におけるホモ型は細胞移植治療において免疫拒絶反応を減らすためのマッチングに有効である。たとえば、多くの卵子由来単為発生ES細胞株はすべてのHLA座についてホモ型になるだろう。あるいは、すでに存在する骨髄バンクや臍帯血バンクなどHLAタイプデータが存在するものから選別したホモ型個人からiPS細胞株をつくる可能性もある。
表1. HLAタイプバンキングのためのヒト多能性幹細胞株の比較
ヒト多能性幹細胞タイプ | ヘテロ/ホモ型 | エピジェネティクスの状態 | 由来細胞 |
---|---|---|---|
ヒトES細胞株 | 多数ヘテロ/少数ホモ | 大部分正常 | 余剰胚提供が必要 |
単為発生ES細胞株 | 多数ホモ | 刷り込み遺伝子座の異常 | 卵子提供が必要 |
ヒトiPS細胞株 | 多数ヘテロ/少数ホモ | 不完全な再プログラム化 (初期化) | 体細胞で十分 |
ホモ型iPS細胞株 | 特定のHLA座でホモ | 不完全な再プログラム化 | 選別された提供者が必要 |
mGS細胞株 | 多数ヘテロ/少数ホモ | 刷り込み遺伝子座の異常 | 精巣生検による採取が必要 |
様々なタイプの多能性幹細胞株におけるエピジェネティクスの状態は、品質管理や安全性について重要である。大部分のES細胞株はこの観点から大きな異常はないだろう。ところが、生殖細胞由来の多能性幹細胞株は通常の体細胞とはゲノム刷り込みが異なっている。つまり、単為発生ES細胞株は両方母親由来となり、mGS細胞株はおそらく両方父親由来の刷り込みタイプとなる。再プログラム化された多能性幹細胞すなわちiPS細胞株のエピジェネティクスについては最近世界の多くの研究グループが重点的に比較検討を進めている。現時点では、不完全な再プログラム化による様々な程度の異常が存在すると考えて確かだろう。最近の報告は実際エピジェネティクスの広範な乱れを示しており、さらには特定の異常の存在もマウスiPS細胞について発見されている。ES細胞株に比較した場合のiPS細胞株の機能的相違または異常も報告されている。
現在のところ、これらのエピジェネティクスの乱れや異常が臨床応用にとって重要な問題点となるかについては不明である。しかしながら、細胞治療に用いる細胞株の安全性は確実にする必要がある。この点では、生殖細胞由来の細胞株における刷り込み遺伝子座の異常は少なくとも予測可能である。しかしながら、iPS細胞株におけるエピジェネティクスの乱れは現状では予測不可能であり、安全性に関して大きなリスク要因となる。
結論としては、ヒト多能性幹細胞株のどれかが将来の細胞治療に使用されるかどうかはまだ不明である。本来のゴールドスタンダードであるヒトES細胞株については、米国の幹細胞バイオテクノロジー企業が臨床試験実施に近づいている。これらの企業は、少数のES細胞株から品質管理された分化細胞を作って、多くの患者に対して使用可能な「細胞医薬品」の開発を目指している。現状ではこれが最善の戦略だろう。現在、このようなES細胞を用いた臨床試験の成功が期待されている。ヒト多能性幹細胞や再プログラム化の研究分野は急速に発展しており、将来を予測することは難しい。しかしながら、責任ある科学者は、このような新しい医療の実現について、市民に対して過大な期待を抱かせることは最大限慎むべきである。
注釈
※1 Journal of Dental Research:アメリカの月刊歯学専門誌。過去5年のインパクト・ファクター(影響度の指標)は4.195で同分野64誌中1位(Thomson Reuters 2009 Journal Citation Reports)
※2 論説名"Banking Human Pluripotent Stem Cell Lines for Clinical Application?"
Norio Nakatsuji
J. Dent. Res. | Published online: 16 June 2010 | doi: 10.1177/0022034510375288
http://dx.doi.org/10.1177/0022034510375288
※3 論文名"Dental Pulp Cells for Induced Pluripotent Stem Cell Banking"
N. Tamaoki, K. Takahashi, T. Tanaka, T. Ichisaka, H. Aoki, T. Takeda-Kawaguchi, K. Iida, T. Kunisada, T.Shibata, S. Yamanaka, and K. Tezuka
J. Dent. Res. | Published online: 16 June 2010 | doi: 10.1177/0022034510366846
http://dx.doi.org/10.1177/0022034510366846
- iCeMSウェブサイトでのニュースリリース:
http://www.icems.kyoto-u.ac.jp/j/pr/2010/06/23-nr.html
- 日刊工業新聞(6月23日 29面)に掲載されました。