2021年春号
施設探訪
日本屈指の温泉地として知られる和歌山県・白浜。夕景の名所でもある南紀白浜のシンボル「高嶋(円月島)」の対岸に、日本では数少ない大学附属の水族館、白浜水族館がある。展示の中心は、サンゴやナマコ、エビなどの無脊椎動物。動きは少なく、地味な存在ながら、生物進化の解明には不可欠な存在だ。隣接する瀬戸臨海実験所で甲殻類の研究を進める下村通誉准教授と水族館で飼育などを担当する原田桂太さんの案内で、奥深い無脊椎動物の可能性に触れた。
手に持つのはカイカムリの脱皮殻。「研究していたこともあり、愛着があります。背中にカイメンやホヤを背負って隠れる性質があり、飼育下で水槽にスポンジを入れると、自分に合った形に切り取り、くぼみを作って背負うのが見ていると楽しいです」
他の水族館では魚類の「背景」になってしまうような、サンゴや貝類、ナマコ、ウニなどがここでは主役。常時250種、年間で500種に及ぶ無脊椎動物の展示は、日本有数の規模を誇る。始まりは、京都帝国大学理学部附属瀬戸臨海研究所の水槽室。研究所への昭和天皇臨幸1周年を記念して、1930年に一般公開を開始。2020年には開設90周年を迎えた。現在開館している日本の水族館の中で歴史の長さは3番目。
紀伊半島南西部の白浜町に位置する瀬戸臨海実験所。1922年の開所以来、伝統的に海産無脊椎動物の分類・系統学、とりわけ刺胞・有櫛・軟体・節足・毛顎・原索動物の分野が発展する中心的な役割を担ってきた。同時に分布や生活史などの生態学的な研究も展開。自然界に存在する天然物の種類や性質、分布などを研究し、記載していく「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」の研究拠点として、存在感を放つ。
下村●生物学というと、かつては生態学や分類学などのマクロ生物学が中心でしたが、研究手法の進歩や分野の細分化でマクロ系の研究室は減っています。マクロ系の伝統を受け継ぐこの実験所は、日本の自然史学を牽引するリーダー的な役割も果たしています。
白浜水族館で展示されるのは全て、白浜周辺で暮らす生き物。白浜町の北部に面する田辺湾には、フィリピン諸島付近を源とする黒潮の分枝流が流れ込む。暖かな黒潮の影響を受けて、田辺湾の付近の水温は年平均で約20度、冬期でも12度と温暖。さらに、白浜周辺の海の地形は複雑で、水底の質は岩盤や礫、砂場、泥など多様。白浜周辺の海には、こうした環境に適応した多種多様な温帯性の生物の他、黒潮に運ばれた亜熱帯性の生物が生息し、独自の生物相を形成している。
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原田●漁師さんの協力で、網にかかった珍しい生き物を譲っていただきます。10月から5月はイセエビ漁の解禁期ですから、この時期は展示の入れ替わりが多いです。飼育スタッフ3名で相談して、希少種やおもしろい生態の生きものが手に入るたびに、展示を変えています。
入り口の扉を開くと、まず目に飛び込んでくるのは240トンの大水槽。大型の回遊魚やサメ類が「水族館に来た」という気分を高めてくれる。目玉は全長1メートルのロウニンアジ。世界最大のアジの仲間だ。
最初に展示されるのは、「刺胞動物門花虫綱」、いわゆるサンゴの仲間たち。思わず、魚を探したくなるが、水槽には触手がそよそよと揺れるサンゴのみ。一見、地味な展示だが、水槽一つひとつに技術職員と教員の詳細な解説文が添えられる。解説を片手に生き物の姿や生態を観察していると、サンゴたちは紛れもなく、生きた動物であると実感できる。種名を示すラベルには、和名だけでなく、学名もきちんと記されている。
下村●命名者や命名年までが記されているのは、より正確に「どの種なのか」を示すため。和名だけでは違う生物に同じ名前が付けられていることもあり、正確さに欠けます。国際動物命名規約が定められて動物の学名を決める際の規範が示されました。「誰がいつ名付けたものか」で学名の示す種を明確にしたのです。
子どもたちの春・夏・冬休み期間中は、「研究者と飼育係のこだわり解説ツアー」を毎日実施。内容は日替わりで、研究者たちがそれぞれの専門分野の生きものを解説する。生態の基本情報から最先端の話までが聞けるのは、大学が運営する水族館ならでは。
季節ごとに白浜近海に集まる生き物や珍しい生き物が展示される第三水槽室。研究・実験の都合や季節に応じて展示が変わるので、訪れるたびに発見がある。水槽の一つに目をやると、蛍光色のような黄色いイソギンチャクがみっちり。
原田●このオオカワリギンチャクにはぜひ注目してください。白浜近海と伊豆大島の一部でしか見つかっていない種で、展示している水族館は少ないですよ。
出口に近い第四水槽室は魚類が中心。前半は藻場、岩礁、砂底など、生息環境ごとの展示が見もの。
原田さんのおすすめは、チゴガニやトビハゼなど、干潟の生物の展示。潮の満ち引きを再現する仕掛けは珍しく、他の水族館からも視察に来るほど。
原田●水槽内で潮の満ち引きを再現しないと、干潟の生き物は長生きできません。ポイントは、上下に設置された2つの排水溝。夜間に水量を増やし、上の排水溝まで水位が上がれば満潮。昼間に水量を減らせば、水位が下がる仕組みです。
第四水槽室の後半は、分類群ごとに水槽が分けられている。それぞれの群の特徴や近縁種の違いが観察しやすい。
原田●白浜の冬の名物としても知られるクエは、この水族館の長老です。15歳ほどだと考えられています。
研究棟は改築中。
同じく改装中の図書室には約4,000冊を所蔵。
国内でここでしか見られない図書も多く、研究者たちからの複写依頼が絶えない。
生物は体の基本的なつくりの違いで、「門」というグループに分けられ、動物界にはおよそ30の門が存在する。ヒトを分類学の分類で表すと、「動物界脊索動物門哺乳網霊長目ヒト科ヒト属サピエンス種」。
下村●ヒトが含まれる脊椎動物は脊索動物門に含まれます。およそ30ある動物門の一つでしかありません。ヒトももとを辿れば無脊椎動物から進化してきました。動物全体の進化の流れを明らかにするには脊椎動物だけでは不充分。必然的に無脊椎動物の研究が必要なのです。
下村准教授の専門は、甲殻類の仲間である等脚目。フナムシやワラジムシなどを含む等脚目の中でもオオグソクムシなどの海産種を対象とする。学部生時代は昆虫を研究していたが、研究者が多く、成果の積み重ねも厖大。コウチュウ目、チョウ目のような新たな「目」が見つかる可能性はゼロに近い。しかし、甲殻類は日本近海ですら「目」の全ては把握できていないという。「誰もしていない研究がしたい」とマイナーな海洋生物の研究に移行した。「陸上に比べて海中はアクセスが難しく、採集しづらいという難点もありますが、何より研究者が少ない。等脚目の分類学者は世界におよそ10数人。私が他に専門とするテルモスバエナ目になると、世界に2人です。世界のどこに生息するのか、分布の把握すら困難です」。
下村准教授が乗り出したのは、海底洞窟や地底湖など、人間が足を踏み入れづらい場所の調査。「日本近辺の海底洞窟は充分に調査されておらず、新種はもちろん、〈目〉レベルでの発見もあるでしょう。〈いる・いない〉さえ不明な生物の調査に踏み出すのは勇気が必要ですが、少しずつ積み重ねてきた実績に後押しされ、挑んでいます。生物の進化の過程を考えるうえでも、〈目〉の発見が与えるインパクトは軽視できません」。
瀬戸臨海実験所が管理する田辺湾に浮かぶ無人島。人が手を入れる前の海岸が保護されている。岩礁や砂泥地などの多様な環境に恵まれ、島を一周するだけで田辺湾の生物相を一望できる。
開館時間:午前9時 〜 午後5時(入館は午後4時半まで)
年中無休
入館料:大人 600円、小人 200円(個人の場合)
未就学児は無料で入館できます。