副学長ノート 田中名誉教授の洛書(2004年9月22日)

副学長ノート 田中名誉教授の洛書(2004年9月22日)

東山 紘久

広報課の職員と話していたとき、10年前の広報のコラム「洛書」に寄稿された教育学研究科出身の名誉教授、田中昌人先生の記事に接した。先生は発達心理学の分野で独自の発達理論を構築された方で、障害児教育の分野で学生の頃から、教えていただいた私の大先輩である。不思議な縁で先生の文章に再会したが、そこには、現代人が忘れかけているハングリー精神の大切さが述べられており、私自身大いに自戒したところである。ぜひ今の学生諸君にも読んでいただきたいと思って、先生に再掲載をお願いしたところ快くご許可いただいたのでここにご紹介することになった。

教育学部創設から45年

田中 昌人

昭和24年5月に教育学部が設置されて45年を経た。この間の蓄積をふまえて教育改善のための諸資料を分析していると、教育学部の蔵書数が初年度零、2年度も10月まで零となっていることに目が止まった。すでに学生は2年間に65名入学しており、昭和25年度には後期から専門課程と全学の教職関係の授業および現職教員の研修が開始されていた。予算の裏付けなしに学部が創設された当時の貧しく苦しい実態の一端が示されている。教室もなく、事務室も教官研究室も間借りであった。

遂に昭和25年11月15日、全学の学部長等で構成されていた教育学部整備委員会の最終会議で、「学生費の一部分を教育学部へ分割する」、「教育学部に対して剰余建物の優先的使用を認める」、「できるだけ早い機会に附属学校を設置する」等の決定が行われた。この決定の後、12月14日に5冊の本が3,800円で購入されている。さらに翌昭和26年3月末に洋書が74冊と和書が購入されて、昭和25年度の支払い合計が92,497円50銭と記帳されている。蔵書数は115冊となった。

当時は、敗戦後の占領下における制約があり、洋書の購入はままならない時代であった。購入された教育学関係の洋書は1920年代から1943年までに刊行された古書ばかりであり、戦後の新教育研究も戦前の書籍を得てようやく出発点にたつことができたのである。

『京都大学七十年史』には、「建築施設で長年月難渋した点では、教育学部は例をみない学部であろう」、「創設に新規の予算が計上されなかったために、教育学部の経費は他部局の融通にまって発足したのである。」とある。どの部局も貧困であった。引き揚げ学生が溢れ、授業料が払えず、本を売り、病に倒れ、離学する学生も多かった。そんな中で他部局が融通し合い、新しい学部をつくりだすために懸命の努力を傾けて下さったことを、今日の創造、改革期にあっても忘れてはならないと思う。

教育学部整備委員会が「百年の計を織り込んだ」とされる整備計画は大学院に重点を置いた24講座からなっていた。それは45年後の16講座となった現在でも色あせず、一層の充実が検討されている。ただ、医学部や農学部の病院や農場と同じく大学設置基準第39条で「置くものとする」とされている附属学校はいまだに実現をみていない。それがあれば、人権を守り発達の保障をめざす教育指導研究が、関係者の十分な協議と合意の上にどれだけできたことか。附属学校等がないために何年もかけた教育指導の成果が、半世紀たってもいまだに学位申請論文として出てこないのには教育指導講座を担当してきた者として残念であり、責任を感ぜざるを得ない。外国からも教育方法学等を研究しようとする学生が増え始めている現在、このような自己点検はどう組織評価されるべきであろうか。

もちろん実験講座でなくとも、学生たちは各地の教育や福祉の現場に出掛けるために、交通費や宿泊費、実験器材の購入費等を捻出すべくアルバイトをしたり、生活費を切り詰めたりして努力してくれている。そこには45年前から培われてきたたくましいハングリー精神が生きている。それがいつの日か、88年前に本学に設置されて教育学部の前身ともなった教育学教授法講座の伝統を新しい時代にふさわしく開花させてくれるものと期待している。

「京大広報」483号(1995年4月)掲載