2022年秋号
研究室でねほりはほり
牧野晶子
医生物学研究所 准教授
厳重な防護服に身を包み、シャーレの蓋を開けて液をかける。光学顕微鏡で観察するのは目に見えない相手、ウイルスが感染した細胞だ。病原体であるウイルスと人類は長い歴史の中で格闘を重ねてきた。ところが、医学生物学研究所の清潔感ある廊下の片隅に飾られていたのは、なんともかわいらしい折り紙のウイルス。「ウイルスが悪者扱いばかりされているのは不満です」。牧野晶子准教授の楽しげな語り口から、ウイルスの新たな一面が見えてきた。
HIV、インフルエンザウイルス、そして新型コロナウイルス。ときに人を死に至らしめる恐ろしい存在であるが故に研究されてきたウイルスだが、近年は医療や環境問題への応用、さらには生命進化の謎を解明する可能性を秘めるなど、多様な側面が明らかになっている。牧野准教授は、「種類は何であれ、ウイルスの研究ができれば幸せ」と語るほどにウイルスに魅せられた一人だ。
今はもっぱら、ウイルスの負の側面以外の姿を積極的に発信する立場だが、最初に惹かれたのはその典型的な「危なさ」だった。「高校生の頃、サルの輸入でエボラウイルスがアメリカに持ち込まれたエピソードを描いたノンフィクションの『ホット・ゾーン』を読んで、ウイルスの脅威に立ち向かう科学者の奮闘に心を掴まれました。『死と隣り合わせの仕事かっこいい!』とアクション映画を観てスパイに憧れるような感覚ですね。今は健康第一ですが(笑)」。
『ホット・ゾーン』の主要人物が獣医病理学者だったので、大学時代は獣医学科を専攻し、ネコカリシウイルスという猫風邪の原因となるウイルスの研究を本格的にスタートしたのは学部4年生の頃。「細胞を載せたプレートにウイルスを含んだ液をかけると、感染した細胞が徐々に死んで剥がれていきます。それを観察しながら、『目には見えないけれど、確かにここにウイルスがいるんだ!』と感動しました」。
ウイルスの感染に重要な役割を果たすのがレセプターという細胞表面の分子。ウイルスが結合できるレセプターがその細胞にあれば感染し、なければ感染しない。このシンプルさに惹かれ、ネコカリシウイルスのレセプターを特定すべく、実験を重ねた。「ようやく実験がうまくいったときの喜びは何ものにも代えがたいです。『これを知っているのは世界に私ひとりだ!』という気持ちを味わえたこと、それを論文で発表して、さまざまな研究者から反応をもらえたことは、その後研究者を続ける上での原体験になりました」。
2012年に赴任した京都大学で出会ったのが、「圧倒的に変わり者」と評するボルナウイルス。ゲノムにRNAを持つRNAウイルスの一種で、核内で増殖して細胞を壊さずに増え続ける「持続感染」が特徴だ。所属する研究室を含め、日本では片手で収まる数の研究室しか扱っていないマイナーなウイルスだ。「子孫ウイルスをほとんど産生せず、細胞の中でじーっとしている。研究室を主宰する朝長啓造教授が『引きこもりウイルス』と名付けるほど。ウマやヒツジに感染し脳炎を起こすものの、ヒトにはまれにしか病気を起こさず、他に似たウイルスもいないのであまり知られていません」。
ところがボルナウイルスの引きこもり体質が遺伝子治療や再生医療に応用できることが分かってきた。また最近になって鳥や魚、ヘビから近縁の新種ウイルスが多数同定されており、それらがどんな特徴を持つのかまだ分かっていないことが多い。「ボルナウイルスは『こうすればこうなる』という想定が通用しない。謎が多いからこそ、宝探しのような感覚で、つい、研究が『やめられない、とまらない』(笑)」。
核酸配列の解読技術の進歩で、空気や海水などの環境中にいるウイルスが次々に発見され、これまでに知られていたウイルスは氷山の一角に過ぎないことが分かってきた。「病気を起こさないから存在が認識されず、宿主や性質などが分かっていないウイルスは無数に存在します。そういったウイルスの中にはヒトの社会の役に立つウイルスがいるかもしれません。マイナーなウイルスでも研究する意義は十分にある。これからどんな変わり種のウイルスに出会えるのかと思うとわくわくします」。
ウイルス愛に溢れる牧野准教授。「恐ろしいウイルスの話はたくさんあるからこそ、それだけじゃないよと伝えたい」と、一般の人たちに向けたアウトリーチ活動にも力を注ぐ。そうして生まれた成果の一つが「ウイルスおりがみ」だ。
グラフィック折り紙を得意とするデザインユニットCOCHAEと共に、2種類のウイルスを「ウイちゃん」と「ルースくん」としてキャラクター化。「何よりもかわいさを優先」との言葉通り、従来のウイルスのイメージとは異なるデザインに仕上げた。「ウイルスの擬人化は避けるべきという暗黙のルールがあると思っていましたが、コロナ禍の影響で多くの人がウイルスに関心を持つ今こそやってみるべきだと挑戦しました」。キャラクターはどちらも親しみやすい見た目だが、「ウイちゃん」はエンベロープウイルス、「ルースくん」はノンエンベロープウイルスをベースに、タンパク質や核酸のモチーフを使って顔のパーツを描くなど、学術的な含蓄の深さはまさに折り紙つき。
ウイルスが秘める不思議や魅力に心を動かされてきたからこそ、多くの人に届けたいという想いは強い。ウイルスは多種多様。家庭の本棚に恐竜・昆虫・植物図鑑と並んで「ウイルス図鑑」があってもいいのに、と笑う。「『恐竜ってかっこいい! 昆虫ってすごい!』と思うような気持ちで、ウイルスの奥深さに出会ってほしい。そうした若者が将来、ウイルス研究者となり研究の裾野が広がってくれたら」。
「ウイルスって面白い」という牧野准教授の素朴なわくわくがさらに多くの人に伝播する日は遠くなさそうだ。
ウイルスを病原微生物としてだけではなく、地球の生態系の構成要素として捉えて研究する学問領域。ウイルスが生物の生命活動や生態系に及ぼす影響やメカニズムの解明を目指す。京都大学のほか、東京大学、大阪大学、北海道大学など、日本各地の研究者が集う。牧野准教授は研究に加え、広報担当として参画。
「ネオウイルス学」の班会議でのアイスブレイクとして誕生した「空想ウイルス」。「失恋を癒すウイルス」や「老眼を治すウイルス」などの「いたらいいな」と思うウイルスを、「どんな特徴があるのか、どんな宿主に感染するか、どう活用できるか」までしっかりと空想し、ウイルスに対する想像力を養う。「柔軟な発想で、仮説を立てる力を養うことにもつながります。地球上に存在するウイルスはほとんどがまだ未解明。あながちまったくの空想ではないかもしれないのが面白いところです。読者の皆さんもぜひ、夢のウイルスを考えてみてください」。
まきの・あきこ
1978年、愛知県に生まれる。東京大学農学部獣医学科卒業、同大学院医学系研究科博士課程修了。神戸大学大学院医学研究科研究員、京都大学ウイルス・再生医科学研究所助教などを経て2022年から現職。
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