2022年春号
施設探訪
まごうことなき京都大学のシンボル〈時計台〉。工学部建築学科の教授であった武田五一による、古びないクラシックな造形はさることながら、京都大学の歴史の節目、世相を映す数々のドラマの舞台として、多くの人の記憶に深く刻まれながら、時計台はその存在感を増していった。正門からクスノキ越しに仰ぎ見る時計塔の端正な姿は誰もが知るところだが、その内部の構造や機能について知る人は案外と少ないのではないだろうか。設計にまつわるこだわりや、教員や学生たちの悲喜こもごもを重ね合わせながら、時計台の100年に思いをはせてみよう。
京都大学時計台の誕生は1925年に遡る。第三高等中学校時代から使われていた本館が1912年に焼失し、その跡地に建設された。鉄筋コンクリート造(RC造)の2階建てで、中央には高さ31メートルの時計塔を擁している。
大学の本部機能を備えた時計台の1階には、法学部や経済学部の教室もあり、中でも半円形の法経第1教室は、当時の学内最大の規模で、講演会や学生大会にも使われた。
2階には総長室や貴賓室、教官食堂のほか、2,000人収容の大ホールが置かれ、入学式や卒業式などの式典会場として賑わった。
1961年、地階に中央食堂がオープン(1972年に現在の中央食堂の位置に移転)。1965年には購買部と書籍部が法経本館から時計台地階に移転。
時計台の建設の予算を検討した会議の資料には次のように記されています。
綜合大学ノ実績ヲ挙ゲンガ為各学部ニ共通ナル特別講義ヲ課シ研究上ノ聯絡ヲ図ルノ必要アルニ拘ラズ未ダ特別講義室ノ施設ナキハ頗ル遺憾トスル所ナルヲ以テ大講堂ヲ新営スルノ必要アリ
法学部、文学部、医学部、理学部、工学部に加え、1919年に経済学部、1923年に農学部が新設され、「綜合大学」に変わりゆく時代でした。学部を横断するような特別講義をする場所が必要だと考えられたのです。
「綜合大学」化の背景には、1920年代前半に推進された大学・高等教育改革がありました。高等学校の設立が相次ぎ、京都大学と東京大学の学生数は急増。帝国大学の組織改編も実施されました。1919年まで、現在の「学部」は「分科大学」と称しており、例えば法学部は京都帝国大学法科大学と呼ばれました。その名の通り、分科大学は自立性の強い組織で、教官の肩書も「京都帝国大学法科大学教授」のように分科大学に所属する形になっていました。それが組織改編で「学部」に改称されるとともに、「京都帝国大学教授」となりました。大学の中央集権化が図られようとしたと言えます。
偶然にも、東京大学のシンボルである安田講堂の竣工も、時計台と同じ1925年です。設立の経緯は異なりますが、大学のシンボルになりうる建物が同時期に誕生したことは、中央集権化の象徴と言えなくもありません。
諸説はあるが、日本で初めて講義室に拡声器を使用したのが法経第1教室だと言われている。1929年の学生新聞には、「我が国最初の試み」との文字が踊り、学生の喜びの声が記されている。
日本一のモダン教室です。講壇の上にはマイクロフォン、天井には八つのラウドスピーカーが、威勢よく並んでゐます。これで華々しい座席争奪戦は昔噺となつてしまつて、八時五分前に来た学生も悠々と講義が聴ける訳です。音響の具合も至極結構。山田法学部長の言葉をかりれば「ラッパから出たやうでなくて、唇から出たやうな声」がします。序(ついで)に下宿まで放送してくれゝば、床の中で聴講が出来るのだが……しかし今にそんな時代がきつと来ます。五十年以内には (昭和4年4月15日発行 「京都帝国大学新聞」から)
この新聞記事から約90年後の2020年、オンライン授業の普及で「下宿や自宅での聴講」が現実のものに。
1925年、設立当初の時計台
法学部の滝川幸辰教授の学説を理由に、文部省が辞職または休職を求めたことに対し、法学部の教授会が拒否した。この教授たちの運動は学生たちにも広がった。法学部の全教官が辞表を提出した後、宮本英雄法学部長は法経第1教室で開かれていた法学部学生大会で辞職声明書を読み上げ、学生たちに別れを告げた。こうして33名の教官のうち21名が京都大学を去った。
1960年代末期に日本各地で大学紛争が勃発。京都大学では、1969年1月16日の増寮問題を巡る総長団交決裂後の学生部封鎖に始まる。写真は、大学紛争の終結後に撮られた時計台1階の事務室(庶務部)。
共通一次試験は、学生の気質にも大きな変化をもたらしたと言われる
1階
創立からの京都大学の歴史を貴重資料やパネルで紹介。詳しくは「研究室でねほりはほり」に。
来訪記念にぜひ! 貴重資料を用いたポストカードや、シンボルマーク入りの文房具などの京都大学のグッズや、京大関係者の書籍などを販売。
2階
旧総長室は、来賓者などを迎える迎賓室として使われる。
一般には非公開。今回、「巻頭座談会」の会場として使用。
地下1階
百周年時計台記念館内の「ある扉」から、狭く急な階段を昇ると、時計塔の最上階、文字盤の裏側にたどり着く。部屋の中央には、塔時計の〈心臓〉とも言える駆動装置がある。装置からは4本の黒い金属アームが延び、東西南北4つの壁面に設置された時計の歯車につながる。
1925年から時を刻み続けた塔時計は、1960年代の大学紛争時に壊れてしまう。修理を担当したのは杉谷鉄夫さん。塔時計と鐘の現存しなかった設計図を創起し、駆動装置などの関連装置をほぼ設立当時の形に復元。以後2015年までの45年間、時計の保守を手がけたのも杉谷さん。塔時計に適したオイルを探してイギリスのビックベンを訪問するなど、84歳の引退まで、愛情を注ぎ見守り続けた。現在は、専門の管理業者による保守点検が実施されている。
創立100周年記念事業の一環として、2003年に「百周年時計台記念館」として生まれ変わった時計台。国際会議なども開催できる大小のホールや、展示室、フランス料理店など、市民に開かれた機能を新たに設け、大学と社会とをつなぐ拠点としての役割を担っている。
法経第1教室は老朽化により、残念ながら取り壊しが決まった。新たに大型のシンポジウムも開催できる全面ガラス貼りの大ホールが誕生。正面演台の背後のカーテンを開ければ、桜並木越しに法経本館が望める。
最も大がかりな工事となったのが免震工事。武田五一による意匠を損なうことなく耐震性を確保できるよう、免震レトロフィット構法を採用。建物と地盤との間に免震装置を挟み、地面から浮かすことで地震のエネルギーを吸収する仕組み。
意外と知られていないのが、時を告げる鐘の存在。時計塔の北側面、地上から25メートルの位置にある鋼鉄製の鐘は、直径25センチメートル、高さは35センチメートル。建設当時は30分ごとに鳴っていたそうだが、現在は8時、12時、18時に鐘の音が響く。
定刻になると、モーターでワイヤーを引っ張り、鉄のハンマーが鐘を打つ仕組み。録音音源ではなく、アナログの音が鳴り響く。1969年に大学紛争で壊されてしまったが、2003年の大改修で蘇った。
時計台の設計は、当時、工学部建築学科の教授だった武田五一が担当。時計台のほか、旧建築学教室本館も武田の手によるもの。京都大学以外では京都府立図書館や関西電力京都支店などが知られている。
時計台が完成したのは1925年です。1920年代後半は大学の建物が煉瓦造からRC造へ、歴史様式から新しい造形へと、構造と意匠の両面で大きく変化した時期でした。その最初を飾るのは1922年の建築学教室本館です。1920年に建築学科教授として着任した武田五一による意欲作で、RC造にゼツエッション的な構成と意匠をまとわせる手法は、時計台をはじめ、その後の大学の建物に及んでいきます。小豆色の外壁タイル、幾何学的でグラフィカルな意匠など、時計台と建築学教室本館とには多くの共通点を見つけることができます。
武田は1901年3月から1年余り、1908年6月から約9か月の2度、ヨーロッパに長期滞在しています。ちょうどその頃、ヨーロッパではアール・ヌーヴォーなどの世紀末芸術が隆盛し、多くの国々で新しい造形運動が興っていました。武田は1度目の留学ではアール・ヌーヴォーとグラスゴー派を、2度目の視察ではゼツエッション的を持ち帰り、それを実作として提示してみせました。2度目の視察以降は、武田はゼツエッションを強く支持し、時計台の設計を手掛けた時期には、「セセッション式の如きは我が国民の思想感情とよく適合」すると指摘しています。
とはいえ武田は歴史様式を否定するのではなく、歴史様式とゼツエッションとを重ね合わせることで、新しさを表現しようとしました。時計台では列柱にも見える壁面の柱形、2本の独立柱のある玄関車寄せ、アーチ窓などに歴史様式の残像が見て取れる一方、柱形の柱頭飾りや2階上部にまわされた頂冠帯の幾何学的な意匠、時計の文字盤や外壁タイルのグラフィカルな表現にゼツエッション的な傾向が強く示されます。
武田はヨーロッパの造形のみならず、日本の伝統建築もまた同様に愛しました。また、建築だけでなく石碑、橋梁、街灯、陶磁器、本の装丁にいたるまで何でもデザインしました。そうした造形へ向けられた武田の愛情は、時計台の細部のあちこちに見つけることができるのです。
壁面を覆うタイルはレンガにも見えるこげ茶色。しかし、目地は縦横一直線。レンガ造は構造上、縦方向の目地が通らないようにレンガを積むのが鉄則だが、時計台はRC造のため構造的な心配はない。RC造であることを暗に示すため、わざとこうした貼り方が選択されたとも考えられる。控えめに組み込まれたモザイク状のタイル装飾も見どころ。
>> 百周年時計台記念館