授業に潜入! おもしろ学問
佐野 宏 国際高等教育院 教授
奈良時代に編纂された現存最古の歌集である『萬葉集(万葉集)』。「憶良らは……」で始まる山上憶良の歌をはじめ、耳馴染みのある歌も多いが、いまだ解明されていない謎も多く秘めている。中国から輸入された新しい思想である仏教が国家的な宗教として確立される時代に、歌人たちは何を歌ったのか。子煩悩な憶良、徴税から逃れる倍俗先生、親子愛を説く釈迦……。佐野宏教授の語りに導かれ、散りばめられたヒントから歌人たちの生きた時代を紐解けば、馴染みの萬葉の歌たちは新たな声色を奏でだす。
この授業のテーマは「『萬葉集(万葉集)』❶を読む」。今回は、作品が置かれた時代性に注目して、歌作品を巡る構造を考えてみましょう。取り上げるのは山上憶良❷のよく知られた一首です。
山上憶良臣、宴を罷る歌一首
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ
それその母も 我を待つらむそ
(3・三三七)
この歌は、「憶良どもはもうこれで失礼しましょう。今頃家では子どもが泣いておりましょう。その子の母も父である私の帰りを待っていましょう」というほどの意味。「子どもと、その母親の待つ家へ帰ろうと、おどけて宴席の終了を告げた歌であろう」とされていますが、宴席の閉じ歌として、この歌がなぜ「おどけた」ことになるのかは考えどころです。この歌を聞いて「ははは、そうだよなぁ」と宴席の一同が微笑む要因を、「憶良は子煩悩だった」などと憶良個人の
❶『萬葉集(万葉集)』
日本に現存する最古の歌集。全20巻。4,500余首の歌を収録。奈良時代末期の成立とみられる。数回の編纂作業があったと考えられており、一人の手によってできたものではない。その編者は不明だが、最終的に大伴家持が深く関わったことは疑いがない。皇族や官僚のほか、農民や防人など、広範な人物の歌が収められている。「恋の歌が多いのですが、なかには感情を構造的に捉えた分析的な作品もあります。感情の構造なんて難しそうですが、柿本人麻呂は自覚的にそれができた人なのだろうと思います。人麻呂を評価できた人たちもまたそれ以上に分析的です。現代のような小説や評論がない時代ですから、個人の思想や心情の表現の方法として『歌』しかなかったのだという見方をするべきかもしれません」。
❷山上憶良(660頃-?)
奈良時代の歌人。姓は臣。斉明天皇六(660)年に生まれる。大宝元(701)年正月23日に無位無姓で遣唐少録に任ぜられ、翌二年六月二十九日に出発している。慶雲四(707)年頃に帰国したと考えられる。『萬葉集』の記述から霊亀二(716)年4月に伯耆守となっており、神亀三(726)年頃に筑前守に任ぜられて九州に下っている。神亀五(728)年に大宰帥として赴任した大伴旅人と知り合い、多くの作品を残した。「憶良は大宝元年に唐に出発していますが、そのときは暴風で渡れなかったと翌年の出発の記述に書かれています。それで出発して無事に帰ってきていますから、精神的にも肉体的にもかなりタフな人だったのだろうと思います」。
さて、この歌を文法面からみてみましょう。「憶良ら」の「ら」は複数を表す接尾語ですが、この歌では「謙譲の表現」だとされています。しかし、接尾語「ら」が固有名詞に接続して謙譲の意を表すのは事実上、この例だけ。やや議論のあるところです。
「我を待つらむそ」の「らむ」は推量の助動詞だと高校では習いますが、推量には確信が持てず「かもしれない」というときと、ある程度の確信をもって「~にちがいない」というときがあります。この歌の場合、「今頃は子どもが泣いているだろう」というのを受けているので、あとの「我を待つらむそ」は「きっと待っていることだろう」という確信めいた推量です。
ここで注目したいのは、待っているのは誰かということです。和歌で「待つ」のは、たいていは愛する「妻」か「恋人」である女性。ところが、この憶良の歌では「母」が「我を待つらむ」とあり、「母と子」が父の帰りを待っています。「待つ」主体を「それその母も」と表現するこの憶良の歌は、『萬葉集』全体からすると異質なのです。
では「家族」がテーマになる背景について、憶良の別の歌から考えてみましょう。
惑へる情を反さしむる歌一首 *1
〈并せて序〉
或人、父母を敬ふことを知りて、侍養を忘れ、妻子を顧みずして、脱屣よりも軽にし、自ら倍俗先生と称く。意気は青雲の上に揚がれども、身体は猶し塵俗の中に在り。未だ得道に修行せる聖に験あらず、蓋しこれ山沢に亡命する民ならむか。所以に三綱を指示し、五教を更め開き、遺るに歌を以てし、その惑ひを反さしむ。歌に曰く
父母を見れば貴し
妻子見れば めぐし愛し
世間は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ 行くへ知らねば
うけ沓を 脱き棄るごとく
踏み脱きて 行くちふ人は
石木より 生り出し人か 汝が名告らさね
天へ行かば 汝がまにまに
地ならば 大君います
この照らす 日月の下は
天雲の 向伏す極み
たにぐくの さ渡る極み
聞こし食す 国のまほらぞ
かにかくに 欲しきまにまに 然にはあらじか (5・八〇〇)
反歌
ひさかたの 天道は遠し なほなほに 家に帰りて 業をしまさに (5・八〇一)
*1 「或人、父母を〜歌に曰く」までの大意は以下の通り。「或る人がいて、父母を尊敬することは知っているが、親孝行をして養うことをしようとせず、妻子のこともほったらかして、あたかも脱ぎ捨てた履き物よりもこれを軽んじて、倍俗先生と自称している。盛んな意気は空の青雲の上にも昇らんばかりだが、自分自身は相変わらず俗世の塵にまみれている。仏道修行を積んだ聖者という、公験の証明書もなく、この人は山沢に亡命した民なのであろうか。そこで、三綱(ここは寺院の役職ではなく、君臣・父子・夫婦の道をいうか)を示し、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝、という人間が実践すべき五つの教えのこと)をさらに説くべく、こんな歌を贈り、その迷いを直させることにする。その歌というのは、」
「倍俗先生」の「倍」は背くという意味で、世俗に背を向けた隠遁者を意味します。「先生」は多少皮肉を込めた敬称とされています。その先生に対し、「家族はともにあるべきであって、かたときも離れるべきではない」、「その愛惜の最たるものである家族を破れた靴を脱ぎ捨ててしまうかのように捨て去る人間は、人の子ではない」と批難した上で、「御前も人の子なのだろうから、名前を言うてみよ」と迫っています。第三段は、「地上にある限りは、たとえ山沢に隠れようとも、すべて大君が統治なさっている国土なのだから、あれこれわがままにすべきではないぞ」と諭す内容になっています。
反歌では、「家に帰って生業に精を出せ」と諭しています。「しまさに」は「しまさね」と同じで、命令に近いがやや丁寧な表現で「~しなさい」の意。倍俗先生に対して敬意を払ってはいるようですが、多少揶揄しています。
朝廷に見つからないよう逃げていた倍俗先生ですが、住所が割り出され、さらには国守である憶良から諭すような歌が送られてくる。これは背筋が凍りますよね。倍俗先生は当時の知識層ですので、恫喝や揶揄、からかいよりも、むしろ一定の敬意を払う態度のほうが効果的です。「ひさかたの天道は遠し」とまともに修行をしていない弱点をピシャリと押さえた上で、「先生、家に戻られませ」というのだから逃れようがありません。
歌に詠まれた倍俗先生とはどういう存在なのかを時代背景から考えてみましょう。憶良の生きた奈良時代は国家仏教の時代で、大官大寺や薬師寺を造寺するなど、仏教による鎮護国家思想を推進していました。❸
❸仏教は近代化の象徴だった
「この時代の日本は、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた敗戦国です。民衆にも大陸・朝鮮半島の文化の優位性が拡がり、国内の動揺の中で672年に壬申の乱が起こる。そして、藤原京の時代を経て平城京の時代へと遷る中で、国家安泰のシンボルとして現れたのが仏教です。それまでの日本の神様は目に見えないものでした。しかし、仏教は〈キンピカ〉の仏像という目に見える形で輸入された。新時代の到来を予感させる『流行品』の一面があり、おまけに医療などの現世利益に訴える特徴もあったから影響力も大きかった。もちろん、過去にも仏教の信仰はありましたが、奈良時代は『仏教=近代化の象徴』という考えの中で、政治的に利用されたのです」
ですが、仏教は出家を前提としているので、国家の基本である「家」と「家族」を脅かしかねません。そこで、仏教を国家の統制下におく処置がいくつも講じられています。律令における「僧尼令」は27箇条のうち18箇条が禁止・刑罰規定。神官に関連した「神祇令」では、禁止事項は20箇条のうち1箇条だけなので、いかに僧尼に対する禁止・刑罰規定が多いかがわかります。❹
❹僧尼令の例
*引用は『律令』(日本思想大系、216 頁~ 岩波書店)。一部訓読を改めている。
凡そ僧尼、上つかた玄像を観て(天文観測)、假つて災祥を説き、語国家に及び、百姓を妖惑し、并せて兵書を習ひ読み、人を殺し、奸し、盗し、及び詐りて聖道得たりと称せらば、並に法律に依りて、宮司に付けて罪科せよ。
(僧尼令 第一条)
法律に従って罪を科せられるのは以下のような行い。
●勝手に天文を観測し、国家の行く末の禍福を語り、民衆を扇動。
●兵法を用いたり、殺人などの犯罪を犯した場合。
●虚偽に「悟りを得た」などと称した場合。
凡そ僧尼、寺の院に在る非ずして、別に道場を立てて、衆を聚めて教化し、并て妄りに罪福を説き、及び長宿(長老で宿徳の人、高い徳を有する老人)を殴ち撃たば、皆還俗。国郡の宮司、知りて禁止せずは、律に依りて罪を科せよ。其れ、乞食する者有らば、三綱(その寺院を統轄する僧職の者)連署して、国郡司に経れよ。精進錬行なりといふことを勘へ知りなば、判りて許せ。京内は仍りて玄蕃(玄蕃寮のことで京内寺院の管轄部署)に経れて知らしめよ。並に午より以前に鉢を捧げて告げ乞ふべし。此に因りて更に余の物(食物以外のもの)を乞ふこと得じ。
●寺院以外で勝手に道場を建て、民衆を教化することの禁止。
●年長者への暴力の禁止(仏教的な知恵よりも伝統的な知識を優先させる姿勢が表れている)
●「乞食(いわゆる托鉢のこと)」をするときには、地方の場合は国郡司への申請が必要。郡司は修行なら許可してもよい。
●京内での托鉢は、中央の寺院監督部署への届け出が必要。届け出の時刻は指定されており、金品などの授受は禁止。
仏教の振興と普及を進めながら、民衆教化を厳しく制限するという矛盾した施策のもとで、平城京遷都や大仏建立、さらに恭仁京遷都、長岡京遷都といった過重負担が民衆にのしかかり、加えて天災に伴う飢饉が追い打ちを掛けました。その中で、得度を経て僧尼になった者は戸籍には記載されずに僧尼名籍に登載されるので、税金などの課役が掛かりません。そこで、苦しい課役から逃れるために僧尼に転化しようとする者が増加します。たとえば、養老(717)元年四月壬辰(3日)の元正天皇の詔には次のようにあります。
頃者、百姓、法律に乖き違ひて、恣まにその情に任せ、髪を剪り鬢鬂(鬢の俗字、顔の両側の髪)を髠りて、輙く道服を着る。貌は桑門に似て、情には姧盗を挟むことは、詐偽の生ずる所以にして、姦宄(「姦」は外にいる悪人、「宄」は内にいる悪人のこと)斯より起る。
(行基の無道ぶりを指弾する内容 ―中略―)
僧尼は、仏道に依りて、神呪を持して溺るる徒を救ひ、湯薬を施して痼病を癒すこと令に聴す。方に今、僧尼、輙く病人の家に向ひ、詐りて幻怪の情を禱り、戻りて巫術を執り、逆に吉凶を占ひ、耄穉(老若のこと)を恐り脅やかして、稍く求むること有らむこと致す。道俗別無く、終ひに姧乱生ず。
(『続日本紀』、養老元年四月壬辰)
この箇所には、百姓が勝手に剃髪して僧侶の服装をし、容貌は僧侶に似せて心は悪人という者がいることが述べられています。さらに、最近は勝手に病人がいる家に行き、怪異があるかのように偽って祈禱し、戻ってきては巫術を用いて、虚偽の吉凶を占うなどをして老若に恐怖を与えて、利益を得ようとする者がいることにも注意を発しています。
ここで注意したいのは、僧尼がみだりに病気を治癒して報酬を得ている点です。現世利益としての医療行為が仏教に付随しているため、貴族や民衆の側には僧尼を求める背景がありました。僧尼は朝廷から「公験(くげん)」という証明書が発行されてはじめてなることができる、いわば特権階級。変装しただけでは僧侶としては認められません。しかし、課役から逃れるために僧侶になろうとする人たちがいて、世間的にも僧尼の需要があったことから、私的に僧尼を名乗る私度僧が増加したのが奈良時代でした。
『続日本紀』の神亀元(724)年10月1日の記事には、当時の私度僧の驚きの実態が書かれています。
京と諸国の僧尼の名籍を勘検ふるに、或は入道の元由、披陳明らかならず、或は名綱帳に存すれども、還りて官籍に落ち、或は形貌・誌・黶、既に相当らぬは、揔て一千一百廿二人(1,122人)。
(『続日本紀』、神亀元年十月丁亥)
名籍の不備で入道の由来が不明な僧尼や、僧綱帳に名前が記載されていても官司の籍帳には入道以前の名前がない、あるいは本人の容貌と籍帳に記載されている容貌の特徴とが一致しないという僧尼が、なんと1,122名もいたのです。「君たちはいったいどこから来たのか?」と言いたくなりますが、死亡した僧尼の名前をそのまま踏襲・襲名していたり、他人の名前を借りて出家入道している者がいたようです。この記事には朝廷が管理統制している僧尼について記されているのですが、得度をしたことを証明するはずの「公験」発行もかなりずさんな状況であったことがわかります。
他にも大勢の籍帳に記載されない僧尼がいたと推測され、当然ながら、朝廷管理下の寺院などで得度を承けずに、勝手に僧尼を名乗る私度僧はさらに存在したと考えられます。倍俗先生を諭す歌では名を尋ねていますが、これは身元を確認するために僧綱帳の入道記録と籍帳とを照合しているからです。この歌が時代性の中にあることがわかります。この時代性が歌の読解の重要な要素なのです。
もう一首、みなさんがよく知っている山上憶良の歌をみることにしましょう。
子等を思ふ歌一首【并せて序】
釈迦如来、金口に正しく説きたまはく、「衆生を等ひとしく思ふこと、羅睺羅のごとし」と。また説きたまはく、「愛するは子に過ぎたりといふことなし」と。至極の大聖すらに、尚し子を愛したまふ心あり。況や、世間の蒼生、誰か子を愛せざらめや。
瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ まなかひにもとなかかりて 安眠しなさぬ (5・八〇二)
反歌
銀も金も玉もなにせむに優れる宝子に及かめやも (5・八〇三)
序文では、釈迦如来が「衆生を平等に思うことは、我が子ラゴラを思うのと同じだ」、「愛ゆえの迷いは子に優るものはない」と説いたとし、「釈迦のような無常の大聖人でさえ、やはり子に愛着する心がおありなのだ。まして、世間の人々で、誰が子を愛さないことがあろうか」と述べています。ですが、釈迦がそんなことを説くはずがありません。仏教思想での「愛」は、対象への執着・惑溺を意味し、それ自体罪悪であり煩悩の一つであり、出家の際に釈迦がまっさきに捨てたのが子であるラゴラだからです。
この点は「憶良は仏教を曲解している」とも言われますが、素直に歌一首を読めば「子に優る宝はない」と詠んでいるので、親子愛を否定する仏教を批判する立場に立っていると考えられます。
憶良の生きた時代は、私度僧が社会問題化して、家族という枠組みが崩壊しつつありました。天皇家の皇統は親子関係というもっとも素朴な血縁を血統とするもの。やや粗雑な言い方ですが「家」という単位こそが日本の国体(国家観)の根幹でした。
一方で、当時の近代化の象徴であった仏教は出家を求めます。それだけに、導入当初から「家」の崩壊が懸念されました。倍俗先生に「家ニ帰レ」と諭す歌はまさにその時代性の中にあります。また、「子等を思ふ歌」は倍俗先生を諭す歌の直後に収められていることからも、親子関係を素材とする憶良の作品には、仏教思想を巡る当時の時代性を色濃く反映していることが分かります。
とすれば、冒頭の「憶良ら」の歌は子煩悩の作者による惚気だろうかと問い直す意義はあります。この歌を聞く人たちにも私度僧の社会問題は共有されているはずです。「憶良ともども、みんな家族の待つ家に帰りましょう」とは、その時代に生きる人たちや社会に投げかけられた歌であったとはいえないでしょうか。宴席から退出する歌に私度僧を巡る政治的なプロパガンダの意味を込めることで、この時代を生きた宴席の参加者には「同意するよ」という意味での笑いを誘ったのでしょう。そのようにみるなら、「憶良ら」の接尾語ラは謙譲表現ではなく、憶良を含めた我々複数を表すとみるほうが、語法的にも無理がありません。
憶良以前の歌は「きれいや」、「好きや」という感情を歌っていましたが、憶良は「私度僧が多い」、「家族を捨てよる」と社会世相を歌の中に引き込んでいます。そこが歌人としての憶良の特殊さです。『萬葉集』はそうした社会批評的な歌もあり、とても幅が広い。それゆえに一面的な理解が難しいですが、様々な授業を学んで、総合的に捉えると、いろいろなものを引き出す醍醐味を味わえる作品です。
さの・ひろし
1970年、奈良市に生まれる。大阪市立大学大学院文学研究科博士後期課程修了。福岡大学人文学部助教授、武庫川女子大学文学部准教授、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授を経て、2020年から現職。
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