2019年秋号
恩師を語る
中西 寛 (法学研究科 教授)
東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通を間近にひかえた1962年末。日本経済が飛躍的な成長を遂げ、戦後の新しい日本の萌芽がみられるこの時代に、「現実主義者の平和論」で鮮烈な論壇デビューを飾った高坂正堯先生。佐藤栄作をはじめ、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の歴代内閣にブレーンとして関わった。その中でも、佐藤内閣最大の功績とされる沖縄返還では重要な役割を果たすなど、日本の外交政策に多大なる足跡を残した。教育にも一貫して力を注ぎ、多数の研究者を指導。
高坂先生の直弟子の一人として、後を引き継ぎ、国際政治学講座の教授を務める中西寛教授に導かれ、〈巨人〉が見つめた広大な思索の海の波打ちぎわに立ってみた。
高坂正堯先生の処女作『海洋国家日本の構想』の刊行から50年あまり。「現実主義者の平和論」を収録するこの書籍をはじめ、上梓した多数の著作は、今なお絶版になることなく、書店の本棚に並ぶ。「その指摘は鋭く、30歳頃の若さで書かれたとは信じられません。とはいえ、常人はずれた洞察力と、広い見識に裏打ちされた知識の蓄積ゆえの論理展開は、歳を重ねたからといってまねできるものでもない」。高坂先生のもとで国際政治学者を志し、その謦咳に接してきた中西寛教授。「いつもユーモアを忘れない先生。〈怖い〉印象はありませんが、前にすると『頓珍漢なことは言えないぞ』と緊張します。相談に行けば、即座に勘所をつかんで、鋭い示唆をいただきました。ともに過ごした時間は短くとも濃密に感じるのは、そうした一つひとつが印象的だからでしょう」。
1983年、大学3回生の「国際政治学」の講義で出会い、強烈な個性を目のあたりにした。「とにかく厖大な知識量。講義のはしばしにその片鱗がうかがえますが、何より魅力的なのは、知識の受け売りではなく、ご自身の見方で咀嚼して話されること。他の政治学者たちが見ない・言わないような角度からの指摘が飛んでくるのです」。政治学に関連する授業はほとんど受講したが、高坂先生の授業は突出してユニークだった。学生に必要な知識を〈流し込む〉のではなく、自身の国際政治の見方・考え方を前面に押し出すスタイル。「その熱にあてられて、国際政治学ゼミに入りました。著名な〈スーパー教授〉なのだと知ったのは、実はその後のこと」。
高坂先生のゼミは、一学年30人の大所帯。名の知れた先生だという理由もあるが、懐の深い人柄と、鮮烈な視点に魅了された学生たちが目を輝かせて受講した。「ゼミの新歓コンパは高坂先生の発案。『天寅』という名のすき焼き屋さんは、阪神タイガース・ファンゆえのセレクトでしょうか。もちろん、コンパの締めは六甲おろしの大合唱(笑)」。中西教授と高坂先生との昵懇の日々が始まった。
その頃の高坂先生は、中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長を務め、多忙を極めた。頻繁に東京に足を運んでいたが、講義もゼミも休講はほぼなかったという。〈ホームグラウンドはあくまでアカデミズム〉が高坂先生の信条で、東京行きは日帰りがほとんど。最終の新幹線で京都に戻っていたという。「愚痴は一度も聞いたことがありません。ご自身のことはあまりお話しにならないので、カメラクルーに取り囲まれるニュース映像を見て、私たちは先生の状況を把握していたほどです」。
大学院に進学後は、さらなる深淵に触れた。「私たち学生が思いつくようなことはすでに熟考済みで、『そこは違うんちゃうか』とまるで下準備をしてきたかのように、正確に指摘される。たった二、三言で問題点を射抜く、鋭い観察眼。数分お話をするだけで、『特別な能力を持つ人だ』とわかります」。
毎週月曜日のゼミの後は、みなで昼食を取るのが恒例。「コーヒーを飲みながら1時間ほど、よもやまの話をするんです。ゼミのテーマにまつわること、政治や外交などの時局的な話、もちろん阪神タイガースについても(笑)」。高坂先生がいると、院生からも自然と発言が飛び出した。「まるで触媒のようでしたね」。
大学院修了後は、高坂先生の後押しを受けてシカゴ大学の歴史学部に留学。帰国後の1991年、国際政治学講座の助教授に就任した。担当する授業もまだ少なく、1995年秋に一年間の在外研究から帰国して資料を整理する中、別れは突然にやってきた。
1996年2月、授業が終わり、キャンパスがもの寂しくなった頃、当時の村松岐夫法学研究科長から、「会っておいたほうがいい」と伝えられた。自宅を訪ねると、高坂先生は静かに口を開いた。〈肝臓にがんが見つかって、これから手術せないかん。どれだけ休むかわからんけど、治ったら授業するし、よろしくたのむわ〉。青天の霹靂だった。「2か月前には、高坂先生に誘われ、院生たちとアメリカンフットボールの東西大学王座決定戦『甲子園ボウル』の応援に行っているのです。京都大学が学生日本一に輝き、焼肉店で祝杯まであげました」。呆然とする中西教授を前に、高坂先生は〈ま、君がいるから後は安心やけどな〉とほほえんだ。「ありがたいことばでしたが、私の頭はまっ白で、ありきたりの返事しかできなかった」。がんの進行は思いのほか早く、回復をまたずに3か月後の5月、亡き人となった。自宅での小一時間が、高坂先生との最後の会話だった。
喪ってはじめて、高坂先生と過ごした時間が何物にも代えがたいことを痛感した。「実は、門下生時代に読んだ高坂先生の著作は、ごく一部。亡くなられてから、教えを請うように著作を開いて、向きあい続けています」。
著作と対峙する中で、恩師が見つめた知の海の広さを知り、かつての発言の真意に気づかされた。「『あの時代の人たちには追いつけへんと思うね』とこぼされたことがあります。留学からの帰国直後に私が書いた近衛文麿についての論文を読まれたときでした」。当時、第一次大戦時の日本の外交を熱心に見つめていた中西教授は、のちに首相となる近衛文麿が1918年に書いた論文「英米本位の平和主義を排す」を題材に論文を書きあげた。「後で聞いた話ですが、高坂先生は近衛を評価しておらず、私の論文も『読む気がしない』とほうっておかれたそうです。(笑)コンパの席で先輩が私の論文をおもしろいと評価してくれて、ようやく目を通してくださった」。
感想と一緒に漏らされたのがさっきのことば。その背景には、父・高坂正顕先生をはじめとする〈京都学派〉にいだく、尊敬の念があった。京都学派の哲学者たちは、近衛内閣に「戦争回避」の期待をかけたが、近衛の政策は日本をさらに戦争に近づけ、失望感が拡がった。「近衛への評価の背景には、尊敬する知識人への思いがあったのだと合点がゆきました。高坂先生が国際政治学を志望したこととも関係しているのかもしれませんね」。
中西教授の口からは、高坂先生の叡智を表現することばが次つぎとあふれでる。〈政治の意思決定を見抜く洞察力〉、〈歴史や哲学などの人文・社会科学の厖大な知識〉、〈マクロに歴史を見つめる視点〉、〈教養を積みあげることを是とする戦前の教養主義文化と、アメリカの社会科学を受容していった戦後の時代の両方の影響を受けた人〉。口にするたびに変わる表現は、高坂先生の筆舌に尽くしがたい叡智のゆたかさを物語る。中西教授の脳裏には、生前の高坂先生の姿がくっきりと浮かんでいるようだ。
病床でも執筆の手を止めなかった高坂先生。亡くなったあとに3冊の書籍と、1本の論文が発表された。「最期までりっぱな先生でした。日本という国・社会への使命感の強さが先生をかりたてたのでしょう。書かれた時代は古くなっても、そうした気概がいまも若い研究者の心をとらえつづけています」。
シャープな理論と、ふくよかな知識・表現力との交点で、時代を体現するように日本の国際政治学を確立させた高坂先生。その一番星から放たれた光線は、いまも輝きを失うことなく、研究者たちを照らし、導く。
なかにし・ひろし
1962年、大阪府に生まれる。京都大学法学研究科博士後期課程退学。京都大学法学部助教授をへて、2002年から現職。2016年から18年に同大学公共政策大学院 院長も務めた。
*写真(中西教授の近影をのぞく)は、高坂正堯先生の弟の高坂節三さんの提供
5月 京都市に生まれる
4月〜10月 京都府竹野郡(現・京丹後市)の間人に疎開
京都大学法学部に入学
政治学者・猪木正道と国際法学者・田岡良一の2人に学ぶ
京都大学法学部卒業
京都大学法学部助手に就任
京都大学法学部助教授に就任
アメリカ・ハーバード大学客員研究員
(〜1962年9月まで)
『海洋国家日本の構想』(中央公論社)
『国際政治─恐怖と希望』(中公新書)
京都大学法学部に国際政治学講座が設置、初代担当者に
『宰相 吉田茂』(中央公論社)
佐藤栄作内閣で「沖縄基地問題研究会」委員
『世界地図の中で考える』(新潮社)
京都大学法学部教授に昇任
佐藤内閣・竹下登官房長官の諮問機関
「国際関係懇談会」委員
『政治的思考の復権』(文藝春秋)
三木武夫内閣・坂田道太防衛庁長官の諮問機関
「防衛を考える会」委員
『古典外交の成熟と崩壊』(中央公論社)
第13回吉野作造賞受賞
大平正芳首相の諮問機関
「総合安全保障研究グループ」幹事
『文明が衰亡するとき』(新潮社)
財団法人平和・安全保障問題研究所理事長
テレビ朝日「サンデープロジェクト」に
レギュラー出演
『日本存亡のとき』(講談社)
5月 高坂正堯先生 逝去