2019年春号
私を変えたあの人、あの言葉
森田一弥さん
森田一弥建築設計事務所 代表 一級建築士
ろくに建築家の名前も知らなかった高校生のぼくが、大学の入試に際して建築学科を選んだのは、父親が高校の美術教師だったことと、子どもの頃から図画工作が大好きだったからで、何となく親近感を感じたという以外に大した理由はない。誰から聞いたのか記憶にないが、「建築学科ではヌードデッサンがある」という噂(これは本当だった)にも、多少背中を押されたかもしれない。
大学に入って読んだ安藤忠雄さんの本に「建築家になるには旅をしなければならない」と書かれていた。真に受けて、どこへ行けばいいかと本屋で立ち読みしていたら、カヌーイストの野田知佑(ともすけ)さんが書いた『日本の川を旅する』が目に止まった。カヌーで旅するのは普通の旅行とは目線が違って楽しそうだと思い、一念発起して夏休みに喫茶店でアルバイトを始めた。貯めたお金で背中に背負える折りたたみ式カヌーを買い、四国の四万十川や北海道の釧路湿原など、カヌーにテントを積んで日本各地を旅した。というわけで、大学の建築の授業にはほとんど出席しないダメ学生だった。
唯一、精を出して取り組んだ授業が、建築の設計演習であった。いろんな建築家の作品を参考にしながら自分の考えを建築の形にするのだが、現代の建築がそれほど魅力的にも思えなくて、悩んでいた。そのころ、建築学科の授業で『建築家なしの建築』(バーナード・ルドフスキー著)という本を紹介された。名もない人々が作り出した世界中の個性的な建築や集落の写真集で、その独特の雰囲気に一気に惹きつけられたが、いかんせん写真が小さく画質も悪い。それを見るために海外に行きたいという思いが募っていった。
そのころ早稲田大学の探検部にいた高校の同級生に『深夜特急』(沢木耕太郎著)を手渡された。インドから陸路でヨーロッパを目指すという旅のスタイルに衝撃を受け、そこで再び一念発起して大学を1年間休学し、ユーラシア大陸を横断する旅に出ることにした。
神戸港から出港する鑑真号というフェリーで上海に向かい、ひたすら陸路で西を目指した。『建築家なしの建築』で紹介されていた、ヤオトンと呼ばれる中国の地下住宅、砂漠の風を採り入れる塔のあるイランの民家、仏壇のように装飾されたルーマニアの木造民家など、小さな白黒の写真を頼りに探し歩いた。その土地で長い時間をかけて育まれた名もなき建築の魅力に強く心を揺さぶられた。
大学院を出ると、「見る」だけの建築からもう一歩踏み込んで「造る」ことも知りたいと、文化財の修復を専門にする京都の左官職人さんに弟子入りした。左官職人とは要するに、お寺や民家の土壁や漆喰を塗る仕事なのだが、これがまた面白くて一気にのめり込んだ。ただの土塊(つちくれ)や稲藁(いなわら)が、人間の知恵によって美しい建築に仕立て上げられる。日本建築は「木」の印象が強いが、じつは瓦や壁などその大部分は「土」でできている。5年間の修行で、伝統的な土壁の技術を身に付けつつ、暇を見つけては瓦や大工など他の職人の仕事も観察して目に焼き付けた。
2000年になって自分の設計事務所を立ち上げた。その頃から一貫して、町家などの古民家を現代的な用途にリノベーションする仕事や、新築の設計でも、土壁や漆喰など古い技術を用いて空間を彩ることに取り組んできた。そうすることで、現代的な建物にはない過去との連続性や、柔らかな質感を、人はその空間に感じることができるのだ。
建築家としてのぼくの原点は、20代の頃、「旅」をすることで出会った数え切れないくらいの「建築家なしの建築」だったのだと、今になって思う。
もりた・かずや
1971年、愛知県に生まれる。1997年に京都大学大学院工学研究科修士課程修了。京都「しっくい浅原」にて左官職人として修行、金閣寺など文化財建築の修復工事にたずさわる。2000年に森田一弥建築設計事務所を設立。個人住宅の設計や店舗インテリアのデザイン、古民家再生、国内外での美術展での作品制作、海外での途上国支援など、多彩な活動を行なっている。
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