2018年秋号
萌芽のきらめき・結実のとき
田口真奈
高等教育研究開発推進センター 准教授
「教育に熱中するのは『研究からの逃げ』といわれることがありますが、教育も研究もどちらもできることはもっとかっこいいと思うのです」。
そう語る田口真奈准教授。悩んでいる人を助けたいと、学生時代はカウンセラーや臨床心理士をめざそうとしたこともある彼女の選んだ道は教育工学。
「一人に向き合うこともやりがいのあることだけれど、授業を改善したり、教育システムを改革すれば、もっと多くの人を変えられる。大学時代の指導教官にそう言われて、この分野に興味を持ちました」。
学生たちの可能性のつまった種を花開かせるには、地道な土壌づくりが不可欠なのだ
「大学とは学生が自主的に学ぶ場所」という文言に違和感を持つ人は少ないのではないだろうか。授業は学生におもねることなく、「学生が理解できないくらいがちょうどよい」という教員もいる。しかし、大学の数が増え、大学ごとの役割や学生が大学に求めることが多様化する中で、これまでの教育方法を踏襲するだけでは学生たちの期待に応えられなくなっているという現実もある。
「自由の学風」を謳う京都大学には関係のないこと──と思うかもしれないが、日本国内の大学で教鞭をとる教員の多くは、京都大学をはじめとする研究大学で学んだ研究者だ。「学術研究や、研究者の養成を主たる目的とする研究大学だからこそ、教員の育成や授業内容の向上にも取り組まなければなりません」。そう力強く語る田口准教授。専門は教育工学。ICTの導入や、教育プログラムの改善をとおして、最適な教育方法を探求する学問だ。
変わりゆく教育現場でとくに苦戦を強いられているのが、大学院を修了したばかりの若手教員たち。大学で教鞭をとる中で、それまで培ってきた研究能力だけでは対応できない状況に直面することも多い。「学生たちの私語が多くて授業にならないことがあったり、学生の親との面談も大学教員の仕事だったりすることもあります。知識を教え、研究を指導する以前に、教育者としての能力が求められる。研究者になりたくて就職した若手と、教育現場で遭遇する現実とのあいだにミスマッチが起きているのです」。
これを解消しようと、2005年に京都大学ではじまったのが、大学教員をめざす大学院生やオーバードクター、ポスドクといった就職前の若手を支援する「プレFD(Faculty Development)」と呼ばれるプログラムだ。
プレFDでは、数日間の集中講座や、一年間じっくりと教育指導を受けるプロジェクトなど、多彩なコースを用意し、講義の方法や、教員としての心構えを学ぶ。「とりわけ、実際に教壇に立って授業をする経験を積める『文学研究科プレFDプロジェクト』は国内ではまれな取り組みです。2009年にはじまって今年で9年め。150名の修了生が巣立ってゆきました」。
文学研究科プレFDプロジェクトの導入から普及まで、一貫して支え続けてきたのが田口准教授だ。「導入に先立って若手教員の授業を調査してみると、見よう見まねながらまじめに授業の準備をして、一所懸命に内容の濃い講義をしていることがわかりました。でも、学生たちが興味深く聴いているかというと……」。一方で、かつて自分が経験したような、話術だけで学生をひきつける授業スタイルに憧れ、これこそが授業のあるべき姿だと思いこむ若手教員も多いという。「そのような魅力的な授業ができるのは、並外れた知識量と経験をそなえてこそ。性格の向き不向きもありますし、経験の浅い教員にはなかなか真似できるものではありません」。
プレFDの目的の一つは、「多様な授業の方法を知ってもらうこと」。文学研究科プレFDプロジェクトの発展形として三年前にはじまったのが、大学コンソーシアム京都で京都大学以外の学生を含めたさまざまな大学生を対象に、アクティブ・ラーニングを取り入れた授業をするプログラムだ。「若手に話を聞くと、パワーポイントを使って一方的に話す授業すら慣れていないのに、双方向のアクティブ・ラーニングなんて、『学生は反応してくれるだろうか』、『予想外の返答にすぐ対応できるだろうか』と、不安を募らせてしまっている。でも、きちんと準備すれば学生もきちんと反応してくれることに、自信とおもしろさを感じる若手は多いようです」。そうして不安を克服し、授業に楽しさすら見出した修了生は、積極的にさまざまな授業方法を試すようになる。「その授業を見た仲間やベテラン教員たちが、こんな方法もあるのかと知ることが、また次の一歩になるかもしれません」。
修了生が各地の大学で教鞭をとったり、他大学でプレFDの普及に尽力したりと、成果は着実に実を結んでいる。研究活動では優秀な成績を修める京都大学の若手教員たち。「ちょっと考え方を拡げることができれば、研究で発揮される創造性が授業づくりでも発揮される。私もとても勉強になります。『京大からきた先生は、教育も熱心だし、研究もできる』という評判が拡がってほしい」。
そもそも「FD」とは、各大学や学部などが組織単位で大学教育の向上に取り組む活動のこと。京都大学では、田口准教授の所属する高等教育研究開発推進センターが、FDの核となり活動を推進する。教育学の知識をもつスタッフが授業に悩む教員から相談を受けたり、オンライン講義をはじめ、授業資料の電子化、映像教材の活用など、ICT技術を活用した授業の普及などに取り組んでいる。
「昔ながらの授業を否定したり、枠にはめようとしているのではありません」。誤解を解くように丁寧にことばを選ぶ田口准教授。「日本の大学みなが似たような授業になるなんて、私も反対です。どんな授業であれ、学生に『この分野っておもしろい!』と動機づけられるかどうかが大切。おもしろさを伝える方法は、教える内容や教える先生のキャラクターによっていろいろとあるはずです。ほかの授業方法を知らずに一つの方法に固執しているのか、あえて選び取っているのかは、大きな違いです」。
ICTを導入している教員のインタビューをセンターが運営するウェブサイトで公開するなど、情報発信にも積極的だ。田口准教授らが大事にするのは、制度として押しつけるようなアプローチではなく、教員たちが問題意識や気づきを得る場をつくること、そのための情報発信だ。「時代が変化しているのに、昔ながらの方法にしがみつくことは『京大らしさ』ではないと思います。変化しても変わらない〈なにか〉こそが『らしさ』のはず。憧れの先生に感銘を受けた経験を今の学生にも与えるには、どうすればよいか。ただ形だけを踏襲するのではなく、その先生らしい方法で、学生の学びを喚起させてほしい。私たちはそのきっかけを提供しているにすぎません」。
田口准教授がめざすのは、教育の変化そのものではない。その先の、学生たちの気づきや成長こそがゴールだ。「一つの学問分野の灯をともし続けるには、『この分野はこんなにおもしろい』と、学生たちに伝えることが大事。私たちが授業の手助けをすることで、研究者をめざす若手が増えるかもしれない。『教育工学』の分野で『世界を変える大発見』はないかもしれませんが、大発見をするような研究者を育てる土壌づくりに、私たちの学問は貢献できると思っています。京都大学で蒔いた一粒の種が別の場所で根を張り花開き、その花がまた新しい種を生みだすように、学問の裾野が拡がっていけばうれしいです」。
1994年に日本ではじめて、大学教育の実践的研究と開発を目的とする前身組織「高等教育教授システム開発センター」が設立。2003年に現在の高等教育研究開発推進センターに。高等教育における教授法、教育課程、教育評価、教育制度、ICT活用など、教育システムに関わる開発と実践を行ない、京都大学の教育改革・改善に専門的立場から調査・企画・評価・助言・ 協力を行なう。
たぐち・まな
1971年に大阪府に生まれる。1999年に大阪大学大学院人間科学研究科博士課程を修了。京都大学高等教育教授システム開発センター研修員、メディア教育開発センター(現・放送大学ICT活用・遠隔教育センター)助教授、ハーバード大学デレック・ボク教授学習センター客員研究員をへて、2008年から現職。教育学研究科連携教育学講座(高等教育学コース)の准教授を兼任。