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萌芽のきらめき・結実のとき

2018年秋号

萌芽のきらめき・結実のとき

未知なる世界へいざなう、小さな救世主

亀井謙一郎
高等研究院物質-細胞統合システム拠点(iCeMS) 准教授

「このあいだ、11歳の一人娘と妻を連れてスキューバダイビングに行きました。3人で潜るのが夢だったんです」。
相手をほっと安心させる雰囲気をまとう亀井謙一郎准教授。
研究対象はサイズこそ小さいが、そのポテンシャルは海にも劣らぬ広大なスケールだ。
2017年にiPS細胞と微細加工技術を融合した新しい生体モデル「ボディ・オン・チップ」の開発に世界ではじめて成功。疾患メカニズムの解明、新規薬剤開発への貢献が期待され、その動向は世界規模で耳目を集めている

小さな黒い箱に厳重に保管されていたのは、さらに小さなマイクロチップ。縦75ミリ、横25ミリ、高さ5ミリ。手のひらにのせても十二分におさまるサイズだ。「ここに穴があるでしょう。ピペットでこの穴から心臓や肝臓の細胞を個別に入れて、ヒトの体内を模倣した小さな組織をチップの中でつくりあげるのです。生理学的な状況をマイクロチップ上で再現することで、これまでわからなかった人体のしくみの解明にチャレンジしています」。名づけて「ボディ・オン・チップ」。

「こんなに小さなもので人体のしくみが?ほんとうに?」。はじめて見聞きした人はみな、そう思うに違いない。実は、体内の生理反応を再現するデバイスの発想は、かなり前から実現されていた。それを担っていたのが「組織チップ」。肺や肝臓などの組織構造を模倣する、革新的な発明として注目を浴びていた。しかし、組織チップは単一組織に特化したモデルで、把握できるのは肺、肝臓など、個別の組織の働きのみ。組織間の相互作用を知ることはできない。「たとえば、肝臓にはいろいろな物質を代謝したり、成長に必要な因子を放出したりする働きがあります。それらが血管を通して心臓、肺などの別の臓器に運ばれると、どんな影響を及ぼすのか。それを評価するには、複数の組織を一つのチップで再現する必要があります」。

そこで、亀井准教授はマイクロメートル(1,000分の1ミリ)ほどの小さなものでも扱える微細加工技術を応用し、チップ上の臓器と臓器のあいだに流路を設置。ヒトの複雑な血管網を模倣することで、この問題を解決した。また、iPS細胞の機能も応用することができる。同一人物に由来する組織を複数用意することができ、その相互作用を正確に評価できるからだ。

まだ実用化にはいたっていないが、実現すればヒトも動物もさまざまな恩恵を受けられる可能性がある。たとえば、私たちが体調を崩したときに、なにげなく飲んでいる薬。一粒の小さな薬が市場に出まわるまでに、10年以上の歳月と、約1,000億円ものお金が投資されるといわれている。なぜここまでの困難を伴うのか。「臨床試験に進む一つ前の段階、前臨床試験にその原因があります。この工程ではサルやマウスなどの動物で実験するので、ヒトとは異なる反応を示すことがあり、臨床試験での薬効や毒性の予測を難しくしています」。また、前臨床試験でヒトの代わりに動物を用いることに、倫理的な問題も指摘されている。体外でヒトの細胞を使って検証できるボディ・オン・チップは、動物実験に取って代わる新しい試験法として、製薬会社から期待が寄せられているのだ。

ボディ・オン・チップの概念図。同一人物に由来する組織・循環器などをチップに搭載し、ヒトの生理反応を模倣することができる

説明書のないものをつくりたい

一見すると、シンプルなつくりに見えるボディ・オン・チップ。しかし、開発には工学分野と生物学分野への深い理解と応用力が不可欠。その源流を探ると、意外な答えが返ってきた。

「ぼくの研究者としてのスタートはガンプラです。小学校一年生のときにはじめて買ってもらい、ものをつくるよろこびを覚えました」。親しみやすい笑顔がさらに緩んだ。亀井准教授と同年代の男性の多くが通った道だ。それを皮切りに、プラモデル、ラジコンにも手を伸ばした。部品をカスタマイズするなど、自分なりのアレンジをするようになった頃には、物足りなさを感じるように。「人が設計したものをただ組み立てるなら、だれでもできます。説明書がないものをつくりたい、説明書すら自分でつくりたいと思うようになっていました」。

ものづくりへの興味が高じて、工学分野の大学に進学。研究室に所属してからは、自分の知識や経験、アイデアをベースに新しいものをつくりだすおもしろさにふれ、研究者を志すように。順調に工学分野で研究を進める一方で、すこし気がかりなことが。「大学時代のぼくの専攻はバイオに近い工学。バイオ分野の人たちが知りたがっていることで、実現できていないことはなんだろうと考えてみたのです。工学分野の研究は工学の中だけで回り、外の世界に応用されないことがよくあります。自分もそのパターンに陥っていないか。いろいろ見直したときに、分野をがらりと変えて、アメリカで本場のバイオロジーを研究する研究所に行ってみようと」。

それまでは電極をつくる研究に励んでいたが、新天地では遺伝子組み換えマウスをひたすらつくる毎日を過ごした。研究者としては遠まわりに見える道のりだが、この経験をとおして、のちの大きな発見の要となる両輪をそろえた。

失敗も新しい鍵に

アメリカから帰国した後は、京都大学のiCeMSで研究をスタート。多士済済のiCeMSには、分野の垣根をこえて研究できる環境がある。そのなかでも、亀井准教授の研究室は「iCeMSの中で最も突拍子もないことを言う研究室」と自負する。もちろん、それを率先して実行するのはリーダーである亀井准教授だ。

ある日のこと、技術員にこっそりと「このガーゼで細胞を培養してみて」と頼んだ。通常、培養で利用するのはフラスコやディッシュ。布で培養をすることは、常識では考えられないことだ。「あんなに硬くて、体の中の環境と違うものを、いつまで使わなければならないのかとずっと思っていました」。

従来の容器は、底面を平面的に使うことしかできず、培養の効率が悪い。「フレキシブルに自分の手で形を変えて、空間を立体的に使える材料があれば、大量に細胞を増やせるのではないか。布は折りたためて、通気性も通水性もある。培養の足場としてきっとうまく機能すると確信したのです」。予測どおり研究は成功。当初はきょとんとした反応を見せた技術員も、研究がすすむにつれ納得の表情になったという。これが、「ファイバー・オン・ファイバー」の研究につながった。

「技術員や院生には、『クレイジーなアイデアでもいいから、思いついたらなんでも言ってね』と伝えています」。意見を言いやすい土壌を築くことは、他分野の研究者との相互理解を促し、自分の分野を客観的に見つめなおすことにもつながる。過去の経験から、その重要性は実証済み。もちろん、多角的な視点で研究に取り組んでも、すべて予測どおり成功するわけではない。外れることもしばしば。「大事なのは壁にぶつかったときに、思考転換できるかどうか。原因はなにか、アプローチに問題はなかったか、方向を修正すべきか。思いつくかぎり、あらゆることを検証します。成功しなかったことを『失敗』と捉えないこと。失敗もまた、新しい鍵につながります」。

革新的なデバイスの開発に成功したが、研究はまだまだ終わらない。最終的な目標は「ミニチュアの人体」をつくること。まだ形にはなっていないが、亀井准教授の頭の中で構想は膨らみ続ける。それが私たちの目に見えるようになったとき、一般社会にどのような影響を与えるのか。そこにはきっと、常識のものさしでは測れないポテンシャルがつまっているはずだ。

ボディ・オン・チップの解剖図。切符サイズの装置に、小さな部品が内蔵され、それぞれに役割が異なる

物質-細胞統合システム拠点
(iCeMS=アイセムス)

化学と細胞生物学を融合し、新たな研究領域の開拓をめざし2007年にスタート。細胞生物学者や材料科学者、生物物理学者、化学者、物理学者、生体工学者など、異なる分野の科学者が集い、分野を超えた新しい学問をつくることに挑戦している。汚水や空気を浄化する技術や、脳を若返らすような医療技術の開発などの社会に役立つ可能性を秘めたアイデアが次つぎと創出されている。

かめい・けんいちろう
1975年に東京都に生まれる。2003年、東京工業大学大学院生命理工学研究科生命情報専攻博士課程修了。同年から2010年まで、カリフォルニア大学ロサンゼルス校分子医学薬理学専攻にポストドクターとして在籍。2006年からカリフォルニア・ナノシステム研究所にも在籍。2010年、京都大学物質—細胞統合システム拠点(iCeMS)特定拠点助教をへて、2015年より現職。

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