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恩師を語る

2017年秋号

恩師を語る

〈なにもしない〉ことに全力を注げ
生きている〈あなた〉一人ひとりを見つめつづけた臨床家

皆藤 章
大学院教育学研究科 臨床教育学専攻教授

現代につながる日本の臨床心理学の礎を築いた河合隼雄先生。箱庭療法をはじめとする心理療法を臨床の現場で実践・普及させるなど、臨床心理学者として多くの業績をのこした。教育や文化、児童文学など、幅ひろい探求心で多くの仕事をこなすかたわら、晩年まで、クライアント一人ひとりとむきあうことを欠かさなかった。「たった一人のクライアントの人生を引き受けるために、自分の時間と人生を費やすことのできる、とても大きな人でした」。インタビューに訪れた皆藤章教授研究室には、お別れの会でつかわれたという河合先生の写真パネルが掲げられている。師への思いを語る愛弟子のようすをニカッと笑って見守っている

鳥取県米子市での勉強会での一枚

1997年に実施した鳥取県米子市での勉強会にて。「事例報告を聞いていただく最後の機会となりました」。いまでも週5回ほどは、クライアントと会う皆藤教授。むずかしい問題に出会ったときにはふと、「答えのない問いの前に立たされるのが臨床家だ」という恩師のことばが浮かぶこともあるという。「先生ならどうしただろうと、つねに問うています」

「〈『臨床』は『床ニ臨ム』。床とは『死の床』。そのかたわらに臨み、たましいのお世話をすることが臨床だ〉。私が彼を知った講義で、河合隼雄先生はそうおっしゃった」。テクノロジーを学び、世の中のために働きたいと工学部に入学した皆藤章教授。「『たましい』なんて、近代科学にはありえない概念。そんな非科学的なことばを大学でつかうなんて、じつにふしぎな人だと思いました。でも、この先生のもとで勉強すれば、私の心にひっかかっていたある親子のことがすこしはわかるのではないかと……」。

それは皆藤教授が工学部の2回生のころ。家庭教師をしていた家で、生徒が母親に強い暴力をふるう場面を目撃した。「あわてて止めたのですが、『私が悪いから止めないで』と母親は言う。生徒はしばらくして我に返り、『お母さん、だれにやられたの?』と」。この光景を前に、皆藤教授の胸に、ある確信が生まれた。「科学をいくら学んでも、この親子のあいだの複雑な関係はわからないし、助けることはできない」。工学部に魅力を感じなくなり、大学に行けなくなった。下宿で悶々と将来を考えるなか、「卒業だけでもしたら」と知人にたまたま紹介を受けたのが教育学部。転学部してすぐの四月に冒頭のことばに出会った。

話を聞くことだけに全力を注げ

お別れの会でつかわれたという河合先生の写真パネル臨床心理学にとどまらず、独自の視点から日本の文化や日本人の精神構造、物語などについても考察を深めた。学術的な研究から親しみやすい読みものまで、たくさんの著作がのこされている。1982年に『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞、1988年に『明恵 夢を生きる』で新潮学芸賞を受賞している

「この先生のもとで勉強したい」と、講義後はかかさず質問に行った。「あまりにもしつこく質問するものだから、〈ぼくは忙しいんだ。指導を受けたいなら、大学院まで来なさい〉と言われてしまった。(笑)『ならば』と大学院に進学しました」。

笑顔が印象的な河合先生だが、学生にとっては厳しい指導教官。心理教育相談室に相談にこられた方がたの悩みを聴き、その内容を検討していたときのこと。「あるとき、いくら本を読んでもわからない事例に遭遇しました。先生を頼って報告に行くと、じっと話を聴いたあと、パッと顔をあげて、〈読んだ本のなかに、目の前のクライアントはおったか。そういうこっちゃ。じゃ、忙しいから〉。とにかく話を聴くことに徹して、彼らの語りから学んで考えろと。このことばは、いまも私の原点です」。

「臨床家は〈なにもしない〉ことに全力を注げ」。河合先生には、ことあるたびにそう教えられた。わかってはいても、「この人はこれで苦しんでいる」、「これにはこういう意味がある」と、いつのまにか既存の理論にはめこんでしまう。「語り手の意図は、聴き手の受けとり方しだいで変わってしまう。だから、語り手がどうしてそのことばを語るのか、真剣に見つめなければならない。意図どおりに受けとることができれば、クライアントはかならず変わる。いまようやく、そうわかりかけてきた。でも、まだまだ足りないね」。

10年以上もつづいた週一回50分間の教育分析

大学院修了後は大阪市立大学に着任。師のもとを離れるが、「もっと学びたい」と直談判し、週1回50分間、河合先生の自宅を訪ねての教育分析がはじまった。教育分析とは、カウンセラー自身がクライアントとなり、見た夢を分析家に報告。ともに検討しながら、自分自身の深層に潜むものとむきあう、臨床心理学では主流の訓練法だ。

会うたびに二人の関係は深まったが、教育分析をつづけて数年後、「これ以上は深められない」と行きづまりを感じるようになった。「なぜそうなのか理由がわからず、先生も難儀しておられました」。大学から数か月の在外研究の許可がおりたタイミングをみはからうかのように、河合先生は笑って、「シュピーゲルマンのもとに行かんとな」。河合先生の師でもある分析家を訪ねて、アメリカに飛んだ。

アメリカでシュピーゲルマンとの教育分析を重ねるなかで、その原因が見えてきた。「シュピーゲルマンはある日、私の夢を聞いたあと、だれにでもできるような陳腐な理論で解釈しはじめたんです。腹が立って、『まじめにやってくれ』と言うと、彼は笑顔で立ちあがって、『よく言った。河合にそれが言えなかったんだろう。河合の分析家の私に言えたなら、もう大丈夫だ』と。恩師に考えを否定されることが怖い、心理学でいう『去勢不安』のようなものがあったのかな」。

これをきっかけにさらに分析を深め、終結したのは10年あまりがたち、皆藤教授が40歳なかばにさしかかるころ。「これだけ長くお世話になったのは、私がむずかしい人間だったからかもしれません。『これで終わり』と、たがいが納得する最後までむきあっていただいた。終盤は文化庁長官を務めておられる多忙な時期でしたが、つぎの面会までいちばん長く空いても3週間。ほんとうにありがたかった」。

1997年度に受賞された朝日賞のお祝いのパーティでの河合先生

1997年度に受賞された朝日賞のお祝いのパーティにて。河合先生のにこやかな笑顔と、「おちゃめ」なふるまいは、場の雰囲気をいつも和ませていたという

大学院OBたちとの食事会の集合写真

毎年開かれていた大学院OBたちとの食事会にて。「大学内では、厳しい先生ですが、こういうときはいつも笑っておられる。院生主催のソフトボール大会に参加したり、院生たちと昼ご飯を食べたり、関係をだいじにしておられました」。中列右から1人めが皆藤教授

あのひとことがなければ、私はだめだったでしょう

「忘れられないひとことがあるのです」。皆藤教授はそう言って、とつとつと語りはじめた。「大学院生のころ、クライアントとの心理療法がきっかけで拒食症になりました」。体重は3か月で15キログラムも減った。

すこし食べられるようになり、講座のコンパに参加すると、前の席に河合先生の姿があった。「しばらくして、先生はおもむろに口を開き、〈皆藤くん。味はもどりましたか〉と。泣いてしまいました」。拒食症は味覚障害を併発することがあり、味覚がもどることは回復の兆候でもある。「廊下ですれ違うと、いつも笑って声をかけてくださる河合先生ですが、そのころの私にはあいさつをされなかったことを覚えています。ずっとようすを気にかけてくださっていたのだと、そのとき気づきました。『もどりかけているけれど、まだです』というと、〈それはつらいね〉と……。このひとことはいまだに忘れません。ひょっとすると、10年間つづいた教育分析は、私の心理療法の一環だったのかもしれない。週に1回、同じ時間・場所で分析のために会う。それだけではなく、河合先生はもっとひろく、世界(コスモス)と私との関係という視点から、私を見てくださっていたのかもしれない」。

「あとは頼むな」

近年、皆藤教授が手がけるのは、糖尿病治療を中心とする医療と臨床心理学との共同研究。客観的に人体を研究する「医学」だけではなく、医師などの患者さんの周囲の関係にも目をむける「医療学」の確立は、河合先生が晩年に尽力された課題だ。

2005年、「臨床心理」をテーマにした日本糖尿病学会のシンポジウムの登壇者として、河合先生と二人して招かれたときのこと。当時の皆藤教授は、シンポジウムを企画した石井均先生とともに、糖尿病治療と臨床心理とをつなぐ新しい道を切り拓かんとしていた。「そこで河合先生は、〈がんばっとるな。ぼくは忙しくて、なかなかこういう場に出られへんし、あとは頼むな〉と。そうことばをかけていただいた一年後、脳梗塞で倒れられた。結果として、このことばは私への遺言となりました」。

そのことばを受けて、石井先生とともに、「糖尿病医療学」の確立にむけて、大きくアクセルを踏みこんだ。小さな研究会からはじめ、2016年には糖尿病医療学学会を開催するまでに。当初は反発の声が大きかった医学界にも、臨床心理に関心をもつ医師はずいぶんと増えた。「すこしは遺言を果たせたかな」。河合先生に問いかけるように、ことばをもらす。

のこされた「死」という大きな宿題

フルートを演奏する河合先生学生時代に京都大学交響楽団に入部し、フルートをはじめた。卒業後は、「下手なのでだんだんと吹かなくなって辞めた」が、58歳でふたたびレッスンに通いはじめた。演奏会などでたびたび演奏を披露した

人はどのように死を受けいれて生きていくか。「死」は人類にとって永遠の課題であり、河合先生もそれを考えつづけてきた一人だ。

〈人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、(中略)ほんとに人間というものを考えたら、死のことをどこかで考えていなかったら、話にならないですよね〉。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(1999年、新潮社)から引用

「私はそんな先生自身が、どのような一生を送るのかをじっと見ていたいと思っていました。『死』の課題にヒントを示してくれるのではないかと。でも、河合先生の死をもって、一人ひとりの死は違うのだとつきつけられた。『人間はいかに死んでいくか』という大きな宿題は、より強く私の前にのこったまま。私たちはまだまだがんばらないといけません」。

100人の人間がいれば、100とおりの人生の物語がある。そのことにむきあいつづけた河合先生。「現代の臨床心理は、合理化を求めて、パターン化をすすめる方法に傾いています。でも、社会を見つめれば、高齢者福祉や緩和ケアなどの医療分野を中心に、『死ぬこと』とむきあいながら、人と人との関係を求める時代がくるはずです。そのとき、『生きているその人自身』を見つめる、河合隼雄の思想が見直されるのではないでしょうか」。

のこりの命をどう生きるのか。病気で健康になれない人は、どうやってその不安を克服し、生きていけばよいのか。「その問いに科学は答えることができません。一人の人間の生き方に前例は一つとしてありません。だから、私たち臨床家のような、話をしながらともに歩く人が必要なのです。その時代がきたとき、実力を発揮できるよう、時を重ねています」。

河合先生のお写真

どんな人にもわけへだてなく接しておられた河合先生。自宅への帰路にタクシーに乗ったところ、運転手が悩みごとを話しだした。それを聴いていたら自宅をはるかに越えてしまい、運転手が平謝り。河合先生は「カウンセリングの料金をもらわないかんなあ」と大笑いしたというエピソードも

皆藤教授の写真、河合先生のパネルを背景に

かいとう・あきら
1957年に福井県に生まれる。京都大学大学院教育学研究科修了。大阪市立大学助教授、甲南大学助教授、京都大学大学院教育学研究科助教授などをへて、2008年から現職。

河合隼雄 略年譜

1928兵庫県多紀郡篠山町(現 篠山市)に生まれる
1952京都大学理学部数学科を卒業
数学教師として、奈良の私立高校で教鞭をとりながら、 京都大学大学院(文学部)で心理学を学ぶ
1955天理大学の講師に着任
1959カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院に留学
1962天理大学助教授
ユング研究所(スイス)に留学
1965ユング派分析家の資格を取得、帰国

日本に箱庭療法を紹介

スイス留学中に箱庭療法に出会う。「言語を主体とせず、感性に訴える」技法は日本人に向いていると、帰国後、臨床心理の実践に導入した。
1969天理大学教授
1972京都大学教育学部教育心理学科助教授
1975京都大学教育学部教育心理学科教授
1980京都大学教育学部長

大学院教育学研究科に心理教育相談室が開設

日本初の有料相談機関として「心理教育相談室」が設置された。河合先生も設置に大きく貢献した。
1987国際日本文化研究センター教授 併任
1992京都大学名誉教授(定年退官)
1994国際日本文化研究センター名誉教授
プリンストン大学客員研究員
1995国際日本文化研究センター所長
紫綬褒章
1998朝日賞
2000文化功労者顕彰
2002文化庁長官
2004

大学院教育学研究科臨床実践指導者養成コースの設置

「京都大学の臨床心理学は、日本のトップを走らねばならない。臨床心理士を養成するだけではなく、臨床心理士をさらに指導する指導者の養成が必要」という河合先生の考えにもとづき、日本ではじめて設置。皆藤教授はこの講座の2代め教授を務める。
20077月 河合隼雄先生 逝去

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