2016年秋号
恩師を語る
成宮 周
(医学研究科特任教授、メディカルイノベーションセンター長)
生化学分野で数多くの業績をあげた京都大学名誉教授の早石修氏が、96歳の誕生日を目前にして、2015年12月に亡くなった。さまざまな生理活性物質の生成や薬物の代謝に関わる「酸素添加酵素」を発見し、生化学の教科書を書きかえた早石氏。バイタリティと知的好奇心にあふれる早石氏に魅かれ、その門をくぐった成宮周教授は、学生時代はもちろん、恩師を亡くしたいまもなお、偉大な指導者の背中を追い続けている
「〈Today is the first day of the rest of your life〉。45年前、研究競争に負けて落ちこむ私たちに、早石先生が贈ってくださったことばです」。
早石先生は、25年にわたり京都大学医学部医化学教室の教授を務め、数百人を超える学生、院生、研究員を指導。西塚泰美や本庶佑をはじめとする世界的な研究者、150人を超える大学教授、研究所長を輩出した。成宮周教授もその一人。
名講義として評判だった早石先生の「生化学」に感銘を受けた成宮教授が、「実験がしたい」と医化学教室の門を叩いたのは1970年の秋、ストライキで一年遅れの医学部三回生だった。「その直後、大学紛争で二度めのストライキがはじまったので、朝から晩まで研究室に入り浸り、実験に没頭しました」。半年かけて、ポリADPリボースを分解する酵素活性の同定に成功。「〈きみ、これはほんとうか!〉と早石先生に感心されて奮いたちました。学生でも実験を積み重ねれば、未知のことを明らかにできるのだと、すっかりサイエンスに魅了されました」。
とはいえ、そこは学生。成功に満足し、夏休みの旅行にでかけた。ところが、帰ってくると研究室の雰囲気がおかしい。国立がんセンターの研究室でもこの酵素の同定に成功し、ひと足先に論文が学術誌に掲載されていたのだ。ショックを受ける研究室の面々をみて、〈がっかりするな。またつぎがある〉と、早石先生がおもむろに黒板に書かれたのが冒頭の一文。「そうか、こう考えたらいいんだと、心に刻みました。挫折を味わったのは研究ばかりではありません。人生の折々にこのことばを思い出し、がんばってきました」。
医学部卒業後、二年間の研修医生活を終え、晴れて医化学教室の大学院に進学。じきじきに指導を受け、蛋白質科学、酵素学、物質同定の基礎を叩き込まれた。早石先生は学生たちをなにかと気にかけ、大学におられるときは毎日のように研究室を廻られた。進歩がないと叱られることもしばしば。「右のドアから先生が入ってくると、左のドアからあわてて逃げだす人もいた。ぼくも、『先生の前ではピノキオだ』と仲間にからかわれるくらいカチコチに緊張しました」。先生は「やあ、どうだい?」と気さくに声をかけ、興が乗ると、ご自身の研究談を披露することも。「これがおもしろくって、聞き入ったものです」。
早石先生は、学生の指導に費やす手間や時間は惜しまなかった。実験はもとより、とくに学会発表と論文をだいじにされた。「論文の読みあわせは、教授室の机の前で数十枚の英文論文を、図の説明までふくめて、本人に音読させるのです。ひと段落ごとに、内容や文法を細かく指導し、最後まで読み終わると、全体構成について指摘される。このくり返し。完成まで、三、四回ではすまなかったね。ぼくも学生の原稿をチェックしますが、ついつい自分で直してしまう。早石先生はそうはなさらず、学生の力を伸ばすことに注力された。頭が下がります」。
成宮教授が大学院生であった1975年当時は、いったんは収まったとはいえ、折りにふれ紛争の芽が吹き出した。労働省の音頭で産業医科大学が創られることになり、早石先生が設立委員に任命された。それを知った全共闘の残党は、「産業のための医学とはなんだ。それに協力するとはけしからん」といきりたち、早石先生を囲んで団交になった。しかし、早石先生は動じずに淡々と答えたという。
〈私たちは民主主義の社会に生きている。産業医大の設立は、選挙で正統に選ばれた政府が提案したもので、これに協力するのは国民の責務だ。民主主義のルールを守ろうとしない諸君とは、話ができない〉。全共闘崩れたちはぐうの音も出ずに退散。この一幕に、溜飲を下げた医学生は多かったという。「自身の社会観をもたず、全共闘に恫喝されて、へなへなした教授たちが多かったなかで、先生の姿勢はきわだっていました」。
大学院を終えれば留学するのがあたりまえの時代。「薬理学のジョン・ベイン先生の研究室に行きたいと、緊張しながら先生に告げました。〈ジョンはいいよ! 英国の生んだ天才の一人だ〉と賛成してくださったのですが、ベイン先生に手紙を出すと、『きみの前には700人弱の応募者がいる』と」。あきらめきれずに先生に相談すると、〈こんどロンドンに行くから、話してくるよ〉。700人をとびこえて、留学が決まった。
成宮教授が英国で奮闘していたころ、早石先生は京都で、新たな好奇心につきうごかされていた。「物質を基盤とする生化学を軸に、物質が生体にどう機能するのかという生理学の解明を目標とされた。そのなかで可能性を見出されたのが、プロスタグランジンD2(PGD2)です」。酸素添加酵素で生合成されるPGは、早石先生がはやくから注目していた物質。人体では30種を超えるPGが産出されるが、脳の主たるPGはPGD2。「脳に固有の生理作用と関わっているのではないかと考え、生理学に近い分野で研究している私に目をつけられた。〈成宮をよびもどして、研究を展開してみよう〉と、先生がイギリスにこられたのです」。
早朝に到着した早石先生と朝食をともにした。テーブルには、イギリスの朝食では定番のニシンの燻製料理「キッパーズ」が並ぶ。「いぶかしげに見ていると、『きみ、キッパーズも知らんのか』とからかわれました。そのイギリス滞在中に、はじめて先生とゴルフをしました。距離が縮まったのはそのころから」。
三年ぶりに日本にもどり、早石先生が退官されるまでの三年間を助手として過ごした。「PGD2の生理作用をつぎつぎと解明しました。脳にPGD2を注入されたラットが眠ることを偶然に発見。先生に報告をすると、さすがに驚かれてね」。
〈これはなにかあるぞ〉という直感にしたがい、退官後の早石先生は睡眠研究の道にすすんだ。「〈ついてくるか〉と誘われましたが、薬理学に興味があることを伝えると、すぐさま薬理学の教授を訪ねて、途を決めてくださった」。
「いま、早石先生にお伝えしたいことは」とたずねると、目を閉じて考えこむ成宮教授。「ノーベル賞をとってほしかったね。弟子みなに共通の思いでしょう」。早石先生は晩年、つぎのように語っている。〈アメリカにのこっていたら、ノーベル賞がとれたとアメリカの友人は言う。たしかに私自身の業績は伸びただろうけれど、日本の生化学界に少しでも貢献できたということで、私は幸せだった。(中略)「師の恩」とはよく言うが、私は弟子の恩にも恵まれたと感謝している〉。
その思いに呼応し、かみしめるように成宮教授は語る。「日本に帰ってこられたから、ぼくらがある。早石先生に出会わなければ、ぼくは科学者になれなかっただろうね。みずから道を切り拓く人もいるが、ぼくは先生をロールモデルとして、自分のサイエンスを確立できたのです。90歳になられても、先生の知的好奇心は尽きることはなかった。いつまでたっても私たちの手本であり、驚異です」。
師から受け継いだ「熱」は、66歳をすぎても冷めない。2017年春には、成宮教授が主任を務める「創薬医学講座」が医学研究科に開講。「先生から教わったのは物質を基盤とする化学。酸素添加酵素、ポリADPリボース、PGD2の睡眠研究まで、〈モノ〉を基盤に生体に働く原理を解明された。その足跡をたどって、私はプロスタノイド受容体、Rhoという二つの研究分野を確立しました。それにつづく第三のモノを発見し、それを基盤に薬物をつくりたい」。
成宮教授が医化学教室の門を叩いて45年。医学研究のありようは大きく変容した。明確に分かれていた基礎医学と臨床医学は融合し、基礎生物学や心理学をも取りこみ、その領域を拡げつづける。「早石先生の研究はつねに、その時どきの時代精神を体現していました。そんな早石先生が挑もうとして成しとげられなかったのは、『病気を解く』こと。早石門下生のおひとり、本庶佑先生はPD-1を発見し、がんの現象の一部を解かれた。私も、ヒトの病気の謎を解明したいと、願ってやみません」。
なるみや・しゅう
1949年に滋賀県に生まれる。1979年に京都大学大学院医学研究科博士課程修了。英国ウェルカム研究所研究員、京都大学医学部医化学第一講座助手、同薬理学第一講座助教授、同大学院医学研究科神経細胞薬理学講座教授などをへて、2004年から2007年まで、京都大学医学研究科長・医学部長を務める。2013年に定年をむかえ、京都大学名誉教授。以後、現職。