ノーベル生理学・医学賞受賞者、大隅良典博士が語る研究の足跡そして京都時代 -やりたいこと、おもしろいことを追い続けた半世紀-

2016年、「オートファジー(細胞の自食作用)の仕組みの解明」に対してノーベル生理学・医学賞を単独受賞した大隅良典博士。誰も相手にしていなかった酵母細胞の液胞の働きに着目し、粘り強く地道な観察を続けた結果、すべての動植物細胞に共通する仕組みを解明し世界を驚かせた。その成果は、がんや免疫系の病気、認知症などの新たな治療法を生み出す可能性を秘め、新たな生命科学の一分野を切り開いたと言っても過言ではない。

その大隅博士の研究者としての道のりは、紆余曲折に満ちているが、博士課程時代、京都大学に在籍していたことはあまり知られていない。今回は、博士の京都大学時代の思い出も織り交ぜながら、研究の足跡をたどりたい。

幅広い科学への興味

大隅良典 博士

-1945年2月、福岡県福岡市で生まれた。父は九州大学で教授も務めた鉱山学者、さらに祖父と兄は日本史学者という環境で育った。

福岡といっても自然豊かなところでした。小中学校の頃は昆虫採集が好きで、兄からもらった『生きものの歴史』(八杉龍一・著)などの自然科学系の本もよく読んでいました。でも高校では生物を取らず、クラブも化学部に所属していました。ちょっと危険な実験に挑戦したりしていました。

学者が多い家でしたから、研究者になるということに対する気持ちのハードルは低かったと思いますが、「なりたい」と特に強く思っていたわけではありません。ただ、なるとしても父親と同じ工学系は避けたいと、漠然と思っていました。

-1963年、当初は化学を専攻するつもりで東京大学理科二類に入学したが、授業内容が「あまり腑に落ち」ず、1965年、教養学部に新設された基礎科学科に進学する。

残念ながら大学1、2年の化学は、ワクワクするような面白さがなかったんです。基礎科学科というのは、専攻に縛られず、科学全般を学ぶことが目的で、迷わず選びました。私は、自分がやりたいこと、専攻を2年間で決められない人は、もう少し先でもいいよ、というシステムがあるのは、とてもいいことだと思っています。高校生の時からたとえば「工学部の電子工学科に行きます」と選ばなければならないのは、ちょっと酷じゃないかなと思うんです。

分子生物学との出会い、そして京都へ

-その基礎科学科で、タンパク質の生合成の研究の第一人者、今堀和友教授の授業に魅了された。分子生物学の道に進むことを決意し、大学院に進学。

それまで、遺伝暗号がDNAに書き込まれていることがわかっていたんですが、それがタンパク質に変換されている原理みたいなことはわかっていませんでした。しかし私が修士課程の頃は、たとえばUUUという塩基の並びがフェニルアラニンというアミノ酸に対応しているというように、遺伝暗号とアミノ酸との対応関係が次々に解明されていく時代で、どういうことをやったらそういう謎が解けていくのかということが、とても魅力的に思えました。単純に言えばパズル解きのような興味とも言えます。

-1969年、博士課程に進学し、大腸菌のタンパク質生成を妨げるコリシンの研究に取り組む。しかし2年目に京都大学に国内留学という形で移ってきた。

京都大学が理学部に生物物理学科を新設して、そこに私の指導教官だった前田章夫先生が招かれました。私は東大で研究を続けようと思っていたのですが、実を言うと、当時は東大紛争が激しかった時代で、私も実験をあまりできなかった、というか、やらなかったんです。勉強もあまりしませんでした。はたと気付いたら博士課程2年になるので、もうちょっと集中して研究に取り組むために、私も京都に行くことにしました。

この国内留学にあたっては、きちんとした手続きを踏んでいなかった気がします。今なら考えられないことですね。いい時代だったし、京都大学も寛容だったのかなと思います。京都大学の学生は授業もあまり出なくても勉強する人はする。そういうところが京都大学の魅力だと、思っていました。私は、個人的には、そういうことにいちいち目くじらを立てないで許してくれる社会というのもいいものだなと、思っています。

-生物物理学科は、さまざまな分野から一流の研究者が集まってきており、熱気にあふれていた。博士にとっても刺激的な環境だったようだ。

私がいた前田先生のラボは、隣が大西俊一先生のラボで、そことは論文や本を読む会を一緒に開いたり、また下の階が小関治男先生の部屋で、遠心機を借りに行ったりしていました。さすがに発生生物学の大家である岡田節人先生のところに出入りすることはあまりありませんでしたが、この3つの研究室の間には垣根があまりなく私は自由に出入りしていました。単に行き来するだけじゃなく、全く違う発想で研究している人に出会い議論するのは、とても魅力的で大事なことだと思います。日本の大学は研究室単位でまとまる傾向がありますが、そういう垣根を取り払って全部共用できるようなシステムを創らないと、日本の科学はなかなか発展しないんじゃないかという思いがあります。最近でこそiPS細胞研究所のようにオープンラボを備えるところが増えてきましたが。

新鮮だった京都での生活

-プライベートな面でも、博士にとって京都は新鮮な場所だった。

東京は大きすぎて特徴が乏しいじゃないですか。それに比べて京都はとてもコンパクトで大学の存在感がとても大きく、「大学町」という表現がぴったりです。そのコンパクトな町にさまざまな地域から、さまざまな学生が集まってきている。それは刺激的ですよね。それと京都では学生が大事にされていました。お金がない貧乏学生のために安い下宿なりアパートがあった。私も最初の1年は宝ヶ池のあたりの、古くて汚い下宿にいました。ろくな暖房もなくて寒かったです。そこに何人も集まって、夜遅くまでわいわい議論する。そういうところが学生町の楽しさで、私にとっての当時の京都の魅力です。中古の自転車を買って、京都の町中を、お寺巡りなどをして走り回ったのも思い出です。貧乏学生だったので、喫茶店巡りや美味しいものを食べ歩いたという記憶はあまりありませんが。

-結婚、そして…

京都に来て2年目の年に結婚しました。妻は東大の2年後輩で、同じ研究室にいたんです。修士課程を修了したところで京都の研究室に移ってきました。住まいも北白川のアパートに引っ越しました。ところが、すぐに妊娠していることがわかって、仕方なく彼女は1年足らずで東京に戻って、職探しを始めました。幸い、三菱化成の生命科学研究所ができたところだったので、そこに応募して採用されました。社長面接のときにはもうマタニティ姿で「この三菱本社の採用面接をマタニティで来たのは君が初めてだ」と言われたそうです。「我々は計画性がなくて、よくまあここまで来れたね」という話をよくします。

留学、帰国、そしてオートファジーの研究へ

東京に戻ってからは今堀先生のもとで東大農学部の研究生となり、1974年に理学博士の学位を取得。そこから3年間、ロックフェラー大学のジェラルド・モーリス・エデルマン博士(抗体の化学構造に関する研究で1972年にノーベル生理学・医学賞受賞)の研究室に留学する。

ところが先生は当時、研究分野を免疫学から発生生物学に移していて、私は来る日も来る日も、マウスの受精研究をするのですが、それまでの大腸菌研究とは全く勝手が違い、将来に希望が持てず本当に苦しい時期でした。しかし最後の1年間は、酵母を材料に研究をする機会が得られ、これがその後の酵母研究の出発点となりました。

-1977年に帰国、東大理学部植物学教室の安楽泰宏教授の助手として採用され、当時、「細胞内のゴミため場」くらいに考えられていただけの、酵母の液胞膜での輸送機構を研究することに。

安楽先生は大腸菌の輸送機構について世界的な研究をされていたのですが、酵母を研究させていただけることになりました。実は留学中、酵母細胞から核を分離するときに、遠心管の上部に液胞が白い層になって集まっているのを見て、液胞が細胞の中で何か重要な役割を担っているような気がしていました。私はもともと競争というものが苦手なので、誰もやろうとしない研究テーマを選んだという側面もあります。

-1988年に助教授になり自分の研究室を持ち、酵母の液胞内の分解酵素のメカニズムを新たな研究テーマに選んだ。オートファジーの仕組み解明の始まりである。

液胞にはさまざまな分解酵素が含まれていることはわかっていましたが、どのようにして分解するのか、分子レベルまで迫れるのかについては、誰も研究していませんでした。思えば私の研究は、さまざまな偶然・幸運に支えられてきたと思います。分子生物学が発展する時代に学問の道に入ったこと、東大でも京大でも、新しい学科が設けられた活気ある時期に居合わせたこと、酵母研究との出会い、そして液胞というものが密度の低く低粘性であったために液胞内の構造が観察できたことが、今回の発見につながったんです。

大学教育、基礎科学への思いと危機感

-博士はノーベル賞受賞後、東工大に基金を創設するなど、大学教育の危機について積極的に発信している。

先にも言いましたが、大学は、さまざまな地域からの、いろんな人に出会える場であるということが大事だと思います。しかし今、貧しい人が大学に入りにくくなっている。大学院に行ったら親からも「自活しなさい」と言われ研究に専念できない院生が多い。だから、学生を支援する基金を創りました。それは大学自体を高めることにもつながると思うんです。

-さらに博士は、基礎科学の重要性についても強調している。

科学とは人類が蓄積してきた知の総体、研究というのはたくさんの人たちの努力してきた集積から生まれたものです。日本では「科学技術」という言葉でくくられがちですが、私は「科学は文化」という理解をしてほしい、日本にも寄付文化が根づいてほしいと思っています。そのために、全国的な規模で基礎科学をサポートする基金の設立も計画しています。国に頼らず、社会が大学の基礎科学研究をサポートする仕組みを創りたいのです。

-若手の研究者や学生は、「役に立つこと」より「やりたいこと」を!

最近は若者のほうが保守化していて「先生、そんな役に立たないことを、国のお金を使ってやっていいんですか?」と言い、酵母やマウスよりもヒトを研究すべきだと考える人が増えています。役に立つということは大事なことですし、否定するのは難しい。でもそういう精神はとても貧しいと思います。やはり若者は若者らしく、やりたいことを「やりたい」と言えるのが、社会の発展の原動力になるんじゃないかなと思います。

-京都大学も「やりたいことをやる」「おもろい大学」をモットーとしている。

そういう人が少しずつでも多数になってほしいですね。何かが役に立ったというのは、長い歴史の中で評価を受けるものです。薬でも何年か後に副作用があることがわかったりするし、原子力だってそうでしょう。今は企業も、数年後に何かプロダクトを出すことが役に立つことだと言い、学生もみんなそれを真に受けて、役に立つということは数年後に何か目に見えるものになっているということとイコールだというような考え方はやめようよというのが、私のメッセージです。

ノーベル賞受賞に沸く世間をよそに、当の大隅博士は「偶然の積み重ね」「競争が苦手だから人のやらないことをやっただけ」と素っ気ない。しかし「基礎科学の重要性を社会が認識してくれる契機になるなら、喜ばしい」とも。賞金も新しい基金のために使い、さらに基礎科学全体の底上げのための基金の創設も目論む。科学の未来を見すえるとき、博士の眼は静かな炎を宿す。

Profile

大隅良典 博士は1945年福岡県出身。1967年に東京大学教養学部基礎科学科を卒業。その後、1969年に東京大学大学院理学系研究科修士課程を修了され、1972年の単位取得退学まで同院博士課程に在籍されたが、その間1970年から1971年まで本学理学部生物物理学科に留学されました。1974年には東京大学より理学博士の学位を取得され、同年米国ロックフェラー大学研究員を務められました。

1986年からは東京大学にて助手、講師、助教授を歴任され、1996年には岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所教授に就任されました。2009年から東京工業大学にて、統合研究院特任教授、フロンティア研究機構特任教授を歴任され、現在は科学技術創成研究院 特任教授、栄誉教授を務められています。

同博士 は、細胞の恒常性維持にとって極めて重要な機構であるオートファジーの研究を行っています。酵母遺伝学を駆使して関連遺伝子を次々に同定するとともに、それら遺伝子機能を解析することで、それまで全く未解明であったオートファジーの分子機構を明らかにし、その生理的な意義をも解明されました。

これは、オートファジーが、細胞がその恒常性を維持するために欠くことのできない極めて基本的な機能の一つであることを明らかにしたものであり、その功績は国際的にも高く評価されています。また、オートファジーと疾患の関係についても多くの先導的な研究成果を挙げており、医学分野においても多大なご貢献をされています。

その功績により、2015年に文化功労者として顕彰されたことに続き、2016年には文化勲章を受章されました。さらに同年にはノーベル生理学・医学賞の受賞という栄誉に輝かれました。

また、2017年7月13日に京都大学から名誉博士称号を授与されました。 我が国の基礎科学研究の振興と発展に尽力あられるとともに、次世代を担う理系人材の育成に対しても多大な貢献をされています。

(インタビューは2017年7月13日(木曜日)に行いました。)

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