2017年秋号
まなび遊山
監修 千葉 豊 文化財総合研究センター 准教授
京都大学が吉田の地に設置されたのは一八九七年のこと。その八年前まで、この一帯は愛宕郡吉田村とよばれていた。明治になるまで、「みやこ」は鴨川をへだててすぐそこにあった。キャンパス周辺から出土した「お宝」を中心に、このまちの古い姿に思いをめぐらせてみた
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本部構内は、幕末の尾張藩邸跡をほとんどそのままつかっている。このほかにも、吉田キャンパスの南端には徳島藩邸が、北部構内には土佐藩邸がひしめいていた。土佐藩邸は、中岡慎太郎が陸援隊を結成した場所でもある。
白川道は京と近江坂本とを結ぶ幹線道路。琵琶湖の水産物などをみやこに運ぶ大八車が行き交い、沿道はにぎわった。しかし、幕末には尾張藩邸が建ち、道の一部が寸断された。このころには今出川通に主役の座をゆずったのかもしれない。
経塚とは、経典を地中に収める施設のこと。なかには青銅製の経筒(きょうづつ)が納められていた。経典は朽ちて残っていないが、経筒の台座からはきらびやかなガラス玉が出土した。 経塚が流行したのは平安時代後期。末法思想がひろまるなか、たいせつな経典を子孫に伝えようと願う貴族たちの思いが伝わってくる。
日本列島で水稲耕作が始まったころの、最初期の遺構。現代では棚田などでしか見られなくなった、ごく小規模の小さな水田(小区画水田)で構成されている。保存状態がよかったのは、この地を襲った大規模な土石流のおかげ。
鎌倉時代の貴族、西園寺公経(1171-1244)の庭園だったと考えられている。武士が力をつけるなか、公経は鎌倉幕府に近づいて出世を遂げた。庭を眺めながらの宴は、憩いを求めてのものだったのか、あるいは彼らしい世渡りのひとつだったのだろうか。
中世の職人は、一芸を売りにして各地を渡り歩いていた。みやこに近いこの地では、鋳物師(いもじ)たちは工房を営んで定住していたことがこの遺構からあきらかになった。
江戸時代の地層を発掘すると、直径3cmほどの土製円盤(泥メンコ)がたくさん見つかる。ほかにも、かまどや鍋などを模したミニチュアや人形(伏見人形)が出土する。商品化されたおもちゃが遺跡から出てくるのは江戸時代になってからのことで、「子どもにおもちゃを買い与える」という現代の感覚にちかづいているのがわかる。
文学部考古学研究室の初代教授、濱田耕作が1923年に縄文土器・石器を採集したことを契機に、キャンパス内に遺跡があることが知られるようになった。平安から明治時代にいたるまで、吉田はずっとみやこ近郊の農村だった。都市に取り込まれたきっかけは、1886年に京大の前身となる第三高等中学校が設置されたこと。それまではこの近くに文人が住むことも多く、郊外の静かな環境が好まれたようだ。都会の喧噪を避けつつも、世の動きに敏感な人たちの姿がありありとよみがえるようだ。