京都大学の新輝点

ウスビ・サコ

11 ユーモアと反骨精神、コスモポリタンな発想で人とつながり教育を変えていく(京都精華大学前学長 ウスビ・サコ)11 ユーモアと反骨精神、コスモポリタンな発想で人とつながり教育を変えていく(京都精華大学前学長 ウスビ・サコ)

 アフリカのマリ共和国から中国を経て来日。京都大学の「なんでやねん!」に囲まれながら、日本ならではのコミュニティやコミュニケーションを体得したウスビ・サコさん。京都精華大学の教員になってからは、持ち前のユーモアと反骨精神で学生や同僚たちを魅了し、2018年には学長にも選出されました。日本でサコさんは何を成し遂げ、さらに何をめざしていくのか。関西弁も交えながら語っていただきました。

ウスビ・サコ Oussouby Sacko

1966年マリ共和国生まれ。1985年に高校卒業と同時に国費留学生として中国に留学。北京語言大学を経て南京市の東南大学で建築学、同大学院で建築デザインを専攻。1991年に来日、京都大学大学院工学研究科の修士課程を経て、京都大学大学院建築学専攻博士課程修了、博士(工学)。2001年に京都精華大学人文学部教員に着任。2018年4月から2022年3月末まで同大学学長。2022年4月より全学研究機構長、アフリカ・アジア現代文化研究センター センター長。2002年に日本国籍取得。5カ国語および関西弁を操るマリアンジャパニーズ。

日本の研究室に直接アプローチ
京大だけが心意気を買ってくれた

 中国での留学生活が終わりに近づいてきた頃、マリで旱魃が起こり、国に戻ってもすぐには国家公務員になれないという状況になりました。そのため中国で大学院に進んでいいと言われたのですが、ここで研究するのは難しいと感じました。というのも私の専門分野である建築計画では、住宅調査が必要になります。しかし当時の中国では警察の許可や同行者が必要なため、なかなか自由に研究ができなかったのです。そんなとき、東南大学の大学院に研究者として留学されていた愛知工業大学の杉野丞先生ご夫妻と仲良くなり、日本行きを薦められました。そこで指導教員に相談し、半年だけ日本に行く許可と奨学金を確保してもらい、大阪梅田の日本語学校に通うことになったのです。

 日本語学校で標準語を、また独学で「お茶しばく」「ブイブイいわす」「あかんやんか」などの関西弁も学んだ私は、3カ月ほどである程度会話には困らなくなったため、目的だった大学院進学へと動き出すことにしました。半年で目処をつけなければという焦りがあったので、日本語学校には頼らず自力で行動しました。建築計画を研究している研究者の英語論文を片っ端から読んでは、研究室に電話をかけました。結果ほとんどの国立大学では門前払いを受けたのですが、京都大学の巽和夫先生だけが直接アプローチしてきた私の勇気を歓迎してくれました。「まずは私の研究室に入れ。その間に院を受験したらいい」とチャンスを与えてくれ、半年間、研究生をした後、無事に院試に合格して京大院生となりました。

賢いけどヘンテコな
京大の人々の生態に困惑する

 京都大学では先生や学生との距離の近さに驚かされました。研究室にアフリカ人の留学生を迎えるのはおそらく初めてだったのではないでしょうか。それなのに、お客さま扱いせず一緒に昼ごはんや夜ごはんに誘ってくれましたし、研究会や見学会にも連れて行ってくれました。分け隔てなく同じ仲間として受け入れていただけたのが嬉しかったです。そこから他の研究室の人にも声をかけて勉強会を開いたりと、私も人脈や交流を広げながら活動していきました。また毎日のように私の下宿先の大家さんの家に集まり、宴会をしていたので、絆もどんどん深まっていきました。

ウスビ・サコ

京大時代は下宿先の大家さん宅で毎日のように宴会を開催した。

 戸惑ったのは、先輩後輩の立ち位置など、距離が近い中でも関係の序列性があることや、言わなくても察するだろうというノンバーバルなコミュニケーションを期待されることです。とはいえ、研究室の先生に相談する前に先輩がまず相談にのってくれるなど、サポートレイヤーがたくさんあったことは、いいなと思うポイントでした。何の調査をするにも周りが手を差し伸べてくれるのもありがたかったですし、またそれにより、一人ではなくチームで物事を動かしていくチームワークのコツも学ぶことができました。

 一方で「わけわからん」と不思議でならなかったのが、京大生の集中と無のシークエンスです。彼らは集中していると非常に生産性が高いのですが、それがコンスタントではない。集中しないときはひたすらぼーっとしていて非生産的な時間を過ごします。なのに突然集中しだして、あっという間に公務員試験に合格したり二級建築士の資格を取ってしまったりするところが興味深かったです。

京都精華大学の教員となり、
日本初のアフリカ系学長に就任

 京都大学で博士号を取得した後は、マリ本国やJICAからのオファーはあったのですが、ポストドクターとして京都大学に残りながら研究を続けられる道を探りました。私の大きな目標は国連機関で働くことだったので、社会での実務経験が必要です。そこでどこかの大学で教員として実務経験を積みながら、私の専門である人間居住機構の研究に取り組もうと考えていたのです。そういったなか、京都精華大学の教員採用の公募を見つけ、縁を得ることができました。

 そこからは、自分なりに成果を出そうと、京大時代の研究室の人間関係を参考にしながら、学生たちと交流を深めさまざまなことにチャレンジしました。京大時代はちょっと鬱陶しいなと感じていた先生・生徒、先輩・後輩の距離が近い関係づくりを取り入れ、「サコ先生のゼミは面白い」と言われるようになりました。特にサコゼミ1期生とは今も食事に行くような親しい関係が続いています。京都精華大学も意欲ある者を歓迎する気風がある大学だったため、さまざまな役職を任せてくれました。若手教員や職員を中心に精華の理念を見直しながら人文学部の立て直しに取り組むうちに強い信頼関係が生まれ、2018年には学長に選ばれるまでに至りました。

ウスビ・サコ

ウスビ・サコさんの学長就任は、日本初のアフリカ出身学長の誕生となり話題を呼んだ。

 学長に就任した私は学部改革や教育改革に力を入れ、改革を形にしていきました。一方で京都精華大学に研究機関としての力を持たせるために大学院改革にも取り組んできましたが、こちらはまだ志半ばというところです。京都精華大学は制作やスキル重視の大学と認識されることが多く、実際、海外の芸術大学のように自身の創作活動や作品の背景を理論的に説明する力を育む指導はまだ弱いと考えています。感性だけに頼るのではなく、理論からも芸術や表現を突き詰め、研究や理論の力を作品に還元して充実させていけてこそ、大学で芸術を学ぶ意味があります。

 私の学長としての任期は2022年3月末までなのですが、今後は学生たちに理論的な力を培ってもらうために、学内の研究活動を推進する組織で引き続き大学院改革に取り組みたいと考えています。具体的には、京都大学の山極壽一前総長が所長を務める総合地球環境学研究所や、国際日本文化研究センターと包括協定を結びましたので、この連携を活用しながら京都をベースに国公立・私立の壁を取り払い日本全国の大学や研究機関と連携を図る、新たなモデルをつくっていきたいと考えています。研究機関が連携することで各々の学生や教員の学びや指導の質を高め、一人ひとりの個性を大切に多様性を育む京都精華大学の教育の強みを高めたい。そして工場で規格製品をつくるように学生を育て就職させる側面があることも否めない、今の学部教育の在り方に一石を投じられればと考えています。

京都大学で築いた絆は
私を支えるかけがえのない存在

 学長になると、さまざまな大学の学長同士で話し合う機会がたくさんあります。そこで皆さんと話していると、どの大学も悩みは一緒なのだなと感じます。入学した学生をどう教育し、学生生活を充実させていくかに、どこも頭を悩ませているのです。

 学長同士の話し合いの席で、さまざまな大学の価値観に触れながら学部教育のあり方や学生との関わり方を考えるなかで、フラッシュバック的に脳裏に浮かんでくるのが、自分が京都大学で過ごした日々でした。当時は鬱陶しく感じていたほど距離が近いサポート関係があり、教授、助教、研究室の先輩と縦の関係がしっかりできていたことが、私の大学生活そして研究を支える大きな柱となっていました。京都大学の価値観に倣いながらも、京都精華大学でも独自の大学環境を築いていかなければと、強く思ったものです。

 振り返れば日本に来て今に至るまで、私のホームベースをつくってくれたのは京都大学だったのだと改めて思います。巽先生をはじめとする先生方はもちろん、今や企業や省庁に就職して活躍している研究室時代の仲間たちとのコミュニティは、私が何かをしようとするときに必ず帰ってくる場所です。これからどこに行き、何をすることになろうとも、きっとそれは変わらないことでしょう。

ウスビ・サコ

京都大学の研究室での一枚。今も続く当時の仲間との交流は、人生の大きな糧になっている。

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