京都大学の新輝点

小松 純也

03 テレビ、配信メディア、舞台、縦横無尽に発信を続ける「面白いこと」メーカー(株式会社スチールヘッド 代表取締役 小松 純也)03 テレビ、配信メディア、舞台、縦横無尽に発信を続ける「面白いこと」メーカー(株式会社スチールヘッド 代表取締役 小松 純也)

 テレビの一時代を築いた「ダウンタウンのごっつええ感じ」「笑う犬シリーズ」から、社会現象にもなっている「チコちゃんに叱られる!」まで、数々のヒット番組を世に送り出し続けるテレビプロデューサー、小松純也さん。西宮市で過ごした幼いころから、劇団「そとばこまち」にのめり込んだ京都大学時代、さらにフジテレビ時代から現在へとその足跡をたどりながら、その豊かな発想の源泉、考え方やこだわりを思う存分語っていただきました。

小松 純也 Junya Komatsu

1967年生まれ。京都大学文学部在学中に劇団「そとばこまち」に在籍し、俳優、脚本、演出をこなしつつ、在阪のラジオ・テレビ局で放送作家を始める。卒業後、フジテレビジョンに入社、数多くの人気番組を手がける。2015年に共同テレビに出向し、NHK、TBS、Amazonプライム・ビデオなどの番組を企画制作。2019年3月にフジテレビを退社、株式会社スチールヘッドを設立。現在は人気番組「チコちゃんに叱られる!」のプロデューサーをはじめ、舞台脚本、演出など多方面で活躍する。

ギャグマンガとモンティ・パイソン
そして根拠のない自信

 出身は兵庫県西宮市です。自然の多いところで、魚や虫、食虫植物なんかの採集に明け暮れる、泥まみれの子どもでした。昼間は外を走り回っているんだけど、実は喘息持ちでした。夜中に発作が起きて寝られなくなって、ベランダや玄関先に座り込んで夜が明けるのを待つ、なんてことがよくありました。そんな時は暇なので、妄想をするんです。甲子園に出て優勝するとか他愛もないものなんですけど、ディテールまで描いていました。そうやってイメージすることに慣れたことが、今の仕事につながっているところはあるのかもしれません。もっと直接的には、小学生の時に読みふけっていた「がきデカ」「マカロニほうれん荘」「すすめ!! パイレーツ」「まことちゃん」などのギャグマンガでしょう。それから、イギリスのコメディグループ、モンティ・パイソンの番組が夜中にやっていて、それには大きな影響を受けました。

 また、私が物語をつくれたり台詞が書けたりするのは、兄のおかげでもあります。兄は教養人で中国の古典や歴史に通じていました。キリスト教徒の家なので、よく兄と一緒に教会学校に通っていたのですが、その道すがら、三国志、水滸伝、紅楼夢から日本の物語までいろいろな話を聞かせてくれました。そのときの経験が刷り込まれているのだと思います。

 もう一つ、子どもの頃に受けたキリスト教的な教育も、今の私を形づくっています。母は神様のことをよく「私を強くしてくれる方」と言っていましたが、その母に育てられた私も心の中に、神なのかはわかりませんが客観的、合理的な対話の相手がいる感覚がありました。その人がいるから大丈夫、というような自分の存在に対する自信というか、自己肯定感がありました。私に仕事上の取り柄があるとするなら、プロだったらあまりやらないようなことを、アマチュアっぽいやり方でやることだと思います。何十人もが共同作業をしている現場で自分一人しかできあがりがわかっていない、というような、考えてみれば恐ろしい状況もありますが、そんな時でも心細さや孤独感より、自分に対する根拠のない自信が勝っている。だからこそ、思い切ったことができるのだと思います。

小松 純也
劇団「そとばこまち」にのめり込む
18歳で放送作家見習いに

 京都大学に進学したのは、兄が通っていたからです。といっても、兄は小学生の頃から漢文を読んでいるような人で、私は「がきデカ」ですからね(笑)。正直、入学できるとは思っていませんでした。

 入学直後に劇団「そとばこまち」に入るんですが、きっかけは偶然です。高校時代からの友人と11月祭の上演を観に行き、その友人が「そとばこまち」に入りたいと言っていたんです。とある土曜日、彼と一緒に河原町のボルツにカレーを食べに行こうと思った私は、彼を連れ出すつもりで「そとばこまち」の説明会が行われている場所に行ったんです。でも、なぜか彼はいなかった。人間、目的を失うと静止してしまうもので、つい説明会場に居続けてしまいました。そのまま稽古場に連れ去られて芝居のエキストラの役をふられ、気づいた時には芝居に出ていました。

 当時は、関西の小劇場ブームの後期で、「そとばこまち」の関係者はラジオやテレビにも出演していました。それで、テレビに使う台本を「新人も書け」と言われ、台本を書いて自作自演でやってみたら、これが結構受けたんです。初めてテレビのコントを書かせてもらえることになった時、アイデアを思いついて口の中で繰りながら駅から家まで30分ぐらい歩く間に、「これはいける!」と実感。そして本当に、イメージした通りに笑ってもらえたという、私にとって貴重な経験でした。

 そうこうしているうちに、私は劇団の俳優、脚本、演出をやりながら、放送作家見習いのような仕事をするようになっていきました。18歳の子どもにポンと書かせるなんて、今、テレビ番組の制作現場にいる身からすると考えられません、すごい度量です。活躍中の放送作家の方々と机を囲んでコントを書けたのは、本当にラッキーでしたね。

©1989年 そとばこまちプロデュース『冬の絵空』

1989年に「そとばこまち」がプロデュースした『冬の絵空』(作・演出・出演 小松純也)。写真に写っているのは左から、生瀬勝久、古田新太、山西惇。

野放しにして泳がせて
自分でわからせてくれた先生たち

 勉強の方は熱心ではなく、授業の出席率も低い学生だったのですが、意外にも専攻の先生方はレポートにいい点をつけてくれました。芝居の経験もふまえて書いたことを、「机に座って学んでいる以上のことをやっているのだから」と、評価していただいたのです。先生方は、演劇に理解と愛情をお持ちで、それぞれの探求の仕方を許す懐の深さがあったように思います。

 大学での先生との会話で印象深いものがあります。英語学の授業でエドガー・アラン・ポーの『詩学』と出会い、私は詩の構造分析に興味を持ち、これを芝居に当てはめ、何かしらの方法論みたいなものを身につけたいと思いました。それで先生に相談したら、「ああ、いいですねえ。小松さんはチェコ語はできますか?」と言われ、一瞬で撃沈されてしまいました。チェコ語で書かれたいい本があったようですが、もちろん私には読めません。学問の世界とは、それぐらい厳しいものなのだとわかりました。たまに向学心を持つとろくな目に遭わないものです(笑)。

 後から知ったことですが、ポーは、自分がさも方法論によって詩をつくったかのように書き残しましたが、実は後付けだったと暴露されたそうです。創造は分析からは生まれないのでしょう。たぶん先生方は、そういうこともわかっていながら野放しにして泳がせて、自分でわかる経験をさせてくださったのだと思います。

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