京都大学のあゆみ

歴代総長の式辞で振り返る
井村 裕夫

平成9年度 入学式式辞

井村 裕夫第22代総長

井村 裕夫

 バブル崩壊後、日本経済は低迷が続き1990年代を「失われた10年」と称する言葉もその後登場した。1995年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など社会に大きな衝撃を与える出来事が続いた。90年代の京都大学では大学院改革の結果、学部を持たない独立研究科が次々と設置され、大学全体に占める大学院生の割合が増えていった。
 1997年は京大が百周年を迎えた年でもあり、記念行事が盛大に開催された。井村総長の1997年度入学式式辞では、第101期生となる入学生たちを「京都大学の第2の世紀を切り拓く開拓者」と表現し、自由の学風を大切にしながら多くの先達が世界に誇りうる学問的業績を挙げた京都大学の歴史にも言及し、学生時代によく学び、広い視野と豊かな人間性を育てて欲しいと期待を述べている。

平成9年度 入学式

1997(平成9)年4月11日

 本日は来賓の諸先生をお迎えして、部局長、教職員の出席のもと、平成9年度入学式を挙行し、新入生2,980名、再入学または編入学者46名、計3,026名の皆さんを京都大学へ迎え入れることができましたことを、心から嬉しく思っています。初志を貫徹して京都大学入学の栄冠を得られた皆さんに、心からお祝いの言葉を申し上げます。おめでとうございます。
 皆さんが京都大学に入学できたのは、強い意志、たゆまぬ努力と、すぐれた能力の結果であります。そのことを皆さんは誇りに思ってよいでありましょう。しかし入学試験で測ることができるのは、人間の知的能力の一部に過ぎません。人間には様々な知的能力があり、皆さんの能力の多くもまだ未知数であります。今後、そうした様々な能力を自ら開発してほしいと思います。いま一つ大切なことは知的能力にすぐれたものが、人生の成功者になるとは限らないことであります。最近知能指数IQではなくて、こころの知能指数EQという言葉がブームになっていますが、人間には豊かな感性、強い意志、温かい人間性なども必要であり、それなくして良い人間関係を築くことはできません。これからの皆さんに、人間的な成熟が求められる所以であります。
 さて京都大学は1897年(明治30年)に創立されましたので、本年創立百周年を迎えることになります。皆さんは第101期生という、記念すべき年の入学生であります。京都大学の第2の世紀を切り開く開拓者として、私は皆さんの将来の活躍に期待するところ大変大きいものがありますので、本日は京都大学の創立の経緯と、私が感じている京都大学の特色について述べてみたいと思います。
 1886年(明治19年)、内閣制度が確立した翌年に帝国大学令が定められ、東京大学と工部大学校、法学校等を合わせて帝国大学(現在の東京大学)が発足しました。その6年後の1892年(明治25年)自由党の長谷川泰議員らは「関西ニ帝国大学ヲ新設スル建議案」を帝国議会に提出しました。その中で長谷川議員は、「東京に一つ大学があるだけでは競争者がなく、教員は退嬰的となり、学生も努力を怠って学力が薄弱となる。そこで東京のほかにもう一つ大学を作るべきである」という意味のことを述べています。この建議案は、日清戦争の直前で国際情勢が風雲急を告げていたため日の目を見ませんでしたが、戦争終了後急速に具体化し、1895年(明治28年)には予算案が提出されました。当時京都には大学予備門に相当する第三高等学校が存在したこともあって、大学設立の地として京都が選ばれました。時の文部大臣西園寺公望は京都の出身でありましたので、この新しい大学への思い入れも特別で、自ら面接を行い教授の人選にあたったと言われています。西国寺文相の京都帝国大学への期待には、「政治の中心から離れた京都の地に自由で新鮮な、そして本当に真理を探求し学問を研究する学府としての大学をつくろう」という意図がこめられていたと言われています。
 1897年(明治30年)、最初に設置された理工科大学(現代風に言えば理工学部)の第1期生、53名の入学者宣誓式で、初代総長木下廣次が行った告辞は、その後の京都帝国大学(以下京都大学と呼ぶ)の特色を理解する上で注目すべき内容を含んでいます。木下総長は京都大学が発足するまでの経緯を述べた後、京都大学は東京大学の分校でも、小規模な形のものでもなく、固有の存在であり、従って固有の特性を具えねばならないことをまず指摘しています。そのため学年制をとっていた東京大学より規則を自由にし、各人の能力に応じ3~6年の間に課程を終えればよいという、科目制(現在の単位制)の制度を導入したことを述べています。そして大学生は自重自敬、自主独立の精神を持つべきこと、また教育にあたっては細大注入主義を取らず、自発自得の誘導に努めたいという趣旨の訓示をしています。この木下総長の告辞の内容は、その後の京都大学の学風とよく一致するものであります。
 京都大学の創立に参加した教授の多くは、東京大学の出身でありましたが、当時めざましく学問が発展しつつあったドイツに留学し、教育と研究を一体化したドイツのアカデミズムを新設の京都大学に導入しようとしました。法科大学(法学部)の教授となった高根義人は、1902年(明治35年)「大学の目的」「大学制度管見」という二つの論文を発表し、新生京都大学の教育方針について次のような見解を述べています。すなわち、欧米各国の大学を見た場合、フランス型とドイツ型があり、フランス型は「専門教育を授け、実用的人間を養成する」ところであるが、ドイツ型は学問そのものの養成所であって、「学問の研究と学問の教授の二目的を併有するところである」と述べて、京都大学は後者を目指すべきであるとしています。たしかに当時のドイツの大学では、知識を習得することが目的ではなく、自立的な思考を育て、自立的な探求心を養うことをめざしていました。京都大学、とくに高根義人教授の属していた法科大学では、研究と教育の一致を理想としたフンボルトの理念に基づいて、ゼミナールや卒論が導入されるなど、東京大学とは異った教育方法が採られました。この方法は当時の社会情勢の中では、とくに文官高等試験(現在の国家公務員採用試験I種)の合格率の面では必ずしも成功せず、高根教授も辞職し、教育の方法も変化せざるを得ませんでした。しかしこの法科大学の試みは京都大学の学風が生まれる上に、大きく影響したと私は考えています。
 このように京都大学は東京大学の競争者となることを運命づけられて出発しましたが、政治の中心から遠く離れていることもあって、真理を探究する学問の府となることを目指した創設当時の大学関係者の選択は適切なものであったと考えます。京都は千年の古都で日本文化の中心であり、また山紫水明の静謐な環境に恵まれていることも、学術研究には好適な条件でありました。そして京都には独立不覇の町衆の精神が横溢していたことも、新生の京都大学にとって良い環境であったと言えましょう。
 学問にとって何よりも大切なことは、何物にもとらわれない自由な発想であります。京都大学の百年の歴史の中には様々な困難や挫折もありましたが、自由の学風を常に守る努力を続けてきました。それなればこそ創造性に富む人材を多数世に送り出し、また独創的な研究を生み出すことができたのであります。よく日本人には独創性がないと言われますが、それは決して正確ではありません。わが国の恵まれない環境の中で、多くの先達が、世界に誇りうる学問的業績を挙げて参りました。その中で京都大学の果たした役割は誠に大きいものがあり、それは自由の学風によるものと私は考えています。そして現在の京都大学も、わが国で最も自由な大学であると言ってよいでありましょう。皆さんはその中で伸び伸びと、自分を育て上げてほしいと思います。
 しかし申し上げるまでもないことですが、自由には規律が不可欠であります。学生の中には、残念ながら時として自由の意味を取り違えている人がありますが、自由とは何をしても良いということでは決してありません。自分の自由を尊重することは、他者の自由を尊重することと両立しなければなりません。この相互の自由の尊重は、社会あるいは人間の集団に、自発的な規律の形成を促すことになります。すなわち個としての自らを厳しく律する規律があってこそ、社会や集団の真の自由は得られるのであります。それには決して人に迷惑をかけず、また自らの人生も大切にするという覚悟が求められますし、また自らの行為に対して責任を負わねばならないことも当然であります。自己規制のない自由は放縦であり、自己責任をとらない自由は甘えであることを十分自覚してください。福沢諭吉は有名な『学問のすすめ』の中で「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるの間にあり」とし、更に「独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う」と述べていますが、独立の心があって初めて自由は得られるのであります。
 私が大学生活の中で皆さんにしてほしいと望むことが二つあります。その一つは何と言っても、よく学んでほしいということです。もう少し詳しく言えば、ひとりで学ぶことを、また考えることを学んでほしいという希望であります。これから始まる大学の講義にもカリキュラムはあり、それに従って学ぶことになります。興味の持てない、あるいは苦痛になる科目もあるでありましょう。しかし先生から教えられ、皆で学んで試験を通ることは、最も効率よく知識を得る方法であります。でもそれだけなら、大学で生活することの意味は少ないでありましょう。今まで以上に自由になる時聞が多い大学では、遊んでしまえば学生時代はすぐに終ってしまいます。こうした時こそ、自分ひとりで学ぶことを、また考えることを習慣づけてほしいと思います。自分で考えるためには一定の程度の知識は必要でありますが、知識は本を見ればいつでも得られるものであります。大切なことは興味を持って、あるいは何故という疑問を持って自分で学ぶこと、自分で一生懸命考えて答を見つけることであります。日本の高校までの教育で不足しているものは、自分で学び、自分で考える訓練であります。教えられただけの知識は弱いもので忘れやすいものであります。しかし自ら学びとった知識、考え抜いて得られた知識は、学ぶこと、考えることを楽しいと思う習慣とともに、一生持続するものであります。『論語』に「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆うし」という有名な言葉がありますが、考えることの大切さを教えると同時に、先人に学ぶことの重要さを示したものであります。
 皆さんの中には自分の進路をすでに決定し、終生学問を続けたいという希望の人もあれば、また大学を卒業すれば社会へ出て働きたいと考えている人もあるでありましょう。しかしそれ以上に多くの人が、まだ自分の進路を決めていないことと思います。たとえ就職希望の人達でも、私は大学生活を通じて学問の面白さの一端に触れてほしいと願っています。学問は未知の世界に対する好寄心に導かれて、人類が長い期間をかけて築き上げてきた血と汗の結晶であり、知何なる権力も、また自然の力も滅することのできない人類の貴重な資産であります。それは常に無限のフロンティアを持ち、汲めども尽きせぬ知的興奮を起こしてくれる泉であります。大学こそ、多くの先達や友人との交流を通して知の世界の楽しさと厳しさを学ぶことのできる最適の場所であります。
 就職希望の学生の中には、大学で勉強したことは社会に出てから役に立たないから、学生時代は遊んだ方が良いという意見を持つ人があります。また経営者の中にも、そのように考えている人があります。しかし、それは誤りであります。大学で得た知識の中には、実社会で役に立たないものもありましょう。しかし、大学は単に知識を獲得するだけの場ではありません。それはひとりで学ぶことを、考えることを学ぶところであります。学生時代に学ぶ習慣、考える習慣を身につければ、社会へ出て必ず役立つでありましょう。社会へ出れば、自分で考え、そして自分で責任を負って決断しなければなりません。とくに皆さんが活躍するであろう21世紀は知識や情報が大きい価値を生む社会、技術革新が一層激しくなる社会となるでありましょう。そのため人は生涯学び続けることが必要となります。最近では企業もまた、出来上がったシステムや言われたことに柔順に従うだけの、いわゆる「透明な人材」では、創造的な企業活動はできないと考えるようになってきました。全国一斉に一定の時期に就職の選考を受けるという従来の制度が本年から廃止されたのも、1年を通じて必要な人材を求めようとする企業の態度の現われであります。実社会もまたよく学び、考えぬく力を持った人材を求める方向に変わりつつあります。その学び続ける方法を、習慣を、大学時代に自分のものにしておくことが何よりも大切であります。そのためには、京都大学は大変恵まれた環境であります。かつてさまざまな分野で独創的な学問を生み出した京都大学には、現在も自ら考え、自ら学ぶ伝統が息づいています。皆さんが積極的になれば、先生や先輩から大変多くのことを学びとれるはずであります。
 私が希望する第二のことは、広い視野と豊かな人間性を育ててほしいということであります。学生時代こそ文学や芸術に親しみ、またスポーツやその他のクラブ活動を通じて友達や先輩との心の交流を深めることができる時であります。それによって瑞々しい感性を、温かい人間性を育てることができるでありましょう。また興味を狭い日本国内にしぼることなく、広い世界を見て様々な国の人々と接する機会を作ってほしいと思います。京都大学では本年から、学部学生短期国際交流プログラム(Kyoto University International Education Program: KUINEP)を発足させます。これは外国の大学から学生を20人招いて、1年間英語で講義をし、日本人学生とともに学んでもらうプログラムであり、すでにアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどの各国の大学から20名を越える学生が応募してきています。これと同時に京都大学では、学生交流協定を結んだこれらの大学に、20名の京都大学学生を1年間交換で送り出す制度を始めます。こうした機会を積極的に利用し、外国の人が何を考え、どのように行動をするか、学んで下さい。現在世界は国境が見えにくい時代、人、物、金融、情報が国境を越えて駆けめぐる時代になっています。皆さんが実社会で活躍する次の世紀には、そうした傾向は更に顕著になるでありましょう。このような時代にあっては、世界の人々に共感できる感性、様々な変化に対応できる能力、そして世界の人々が理解できるよう自らの考えを述べる能力が、国際社会にあって、不可欠の要素となります。日本人であるだけでなく、地球人としての広い素養と人間としての深さが求められる時代であります。
 大学は、例えて言えば広場のようなものであります。今日までの皆さんは、定められたコースに従って狭い道をひたすら歩み、大学という広場へやってきました。これからはどちらを向いて歩くか、自ら決めねばなりません。広場には先生、先輩、友人など様々な人がいます。知の泉もあれば、プレイ・グラウンドもあります。そうした中で過ごす4年間は、極めて限られた短い時間でありますが、様々な出会いを通じて人生の方向を決める重要な時期であります。また人生で最も大きく成長できる、あるいは変わりうる可能性のある大切な時期でもあります。京都大学という人生の広場における皆さんの生活が、豊かなものになることを祈って、私の式辞と致します。

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