京都大学のあゆみ

歴代総長の式辞で振り返る
井村 裕夫

平成4年度 大学院入学式式辞

井村 裕夫第22代総長

井村 裕夫

 1980年代終わりから1990年代前半にかけて、東西ドイツの統一やソヴィエト連邦の崩壊により国際社会をとりまく政治状況は激変した。国内ではバブルが崩壊し日本経済は一転してデフレに突入するとともに、PKO協力法による自衛隊派遣など国際貢献のあり方を問う議論も活発化した。
 国立大学をめぐる大学改革の動きは本格化し、京都大学では総合人間学部が設置され、教養部が廃止されたことに伴い、1992年4月から全学共通科目が開講された。同じ時期、法学部が学内で初めて大学院重点化を実施し、以降、他学部でも重点化へ向けた動きが続いた。学士の称号が学位となり、卒業式で渡す合格証書が「学位記」に変わったのも1992年であった。1992年度大学院入学式の式辞では井村総長が大学院改革の必要性を説いているが、明治時代のお雇い外国人ベルツの話を紹介し、研究の成果だけを取り急ぐのではなく科学の精神を学び基礎科学を育てる努力が必要だと説いている。

平成4年度 大学院入学式

1992(平成4)年4月13日

 本日ここに前総長西島安則先生、各研究科長、教職員の御臨席のもと平成4年度大学院入学式を挙行し、修士課程1,293名(うち外国人留学生65名)、博士後期課程580名(うち外国人留学生94名)、合計1,873名の諸君を大学院に迎えることができましたことは誠に慶びとするところであります。心からお祝い申し上げます。諸君が京都大学の大学院に入学することができましたのは、今日までのたゆまぬ努力とすぐれた資質によるものでありますが、同時に諸君の大学院入学を可能にして下さった周囲の方々の御理解と御支援によることにも思いを致し、感謝しなければならないと思います。
 現在わが国では、大学の改革が教育の大きい問題となっておりますが、なかでも大学院の充実は最も重要なテーマの一つであります。わが国の大学への進学率はアメリカについで世界第二位でありますが、大学院への進学率はアメリカは言うに及ばずヨーロッパ諸国よりも低く、質量ともに大学院の改善が望まれています。歴史上で大学院が初めて登場したのは1860年のアメリカであります。この年エール大学で博士号をめざす者のためのコースが設置されました。更に1874年には本格的な大学院大学をめざしたジョンズ・ホプキンス大学がボルチモアに設立されました。当時のアメリカは学問的には後進国であり、ドイツの大学が世界で最も高い評価を得ていましたが、ドイツには大学院はありませんでした。アメリカはドイツに追いつき追い越すため、大学院という戦略を採用したと言ってよいかも知れません。20世紀に入るとアメリカの大学院は急激に膨張し、多数の学生を擁するようになり、やがて世界の学問王国へと発展していったのであります。この発展には二度の世界大戦によるヨーロッパの疲弊、学者のアメリカヘの亡命、アメリカの経済発展などいくつかの要因があるかと考えますが、大学院が一つの重要な役割を果たしたことは疑いがありません。
 一方わが国の大学院は明治19年(1886)に東京帝国大学に設置され、以後第二次世界大戦後の学制改革までこの制度が存続しましたが、実質的には研究者養成機関としては十分機能しませんでした。その理由の一つは戦前のわが国には大学が少なく、研究者の市場が狭かったことによるかと思います。戦後の学制改革でアメリカ流の大学院制度が作られましたが、実質的には学部中心の戦前の影響が残ったものでありました。そしていま第二の大学院改革の時代を迎えている訳であります。
 それではなぜ大学院の改革が必要になってきたかと言いますといくつかの理由が考えられます。まず第一に学問が進歩して学部4年間だけで専門の教育を十分にすることが難しくなったということがあります。第二に大学以外の研究機関が増え、研究者をより多く養成することが必要となってきました。また研究以外の専門職の人もより高度の知識を学ぶ必要が生じてきました。そして第三に研究の高度化、大型化と国際競争の激化により多数の研究者を必要とするようになったことがあげられます。こうしたことから京都大学でも改革が進められ、昨年には独立研究科人間・環境学研究科が発足し、本年には法学部が大学院中心となるように改組されました。また法学研究科に社会人の再教育を目的とした専修コースが発足し、43名の人を迎えることができました。
 大学院においては教育と研究が不可分のものとなります。特に博士後期課程では、研究を通じて専門分野の勉強をすることになります。わが国の研究につきましては独創性が少ないとか、基礎研究が弱いなどの批判が国の内外でなされています。確かにそういう批判はあたっているところもないわけではないのですが、これはわが国の近代がまだ100年あまりの歴史しかもっていないことが原因の一つであると考えられます。
 明治初年、日本政府は西欧文明を速やかにわが国に導入するため御雇外国人を招へいし、東京帝国大学で講義をさせました。その給与は太政大臣、いまの総理大臣なみであったと言います。当時の貧しい日本で教育にこれほどの投資をしたということは、為政者が今より遥かに立派であったと言うことでありましょうか。司馬遼太郎の言葉を借りれば、当時の東京帝国大学は西欧文明の「配電盤」で、京都帝国大学ができるまでわが国に西欧の「電流」を流し込む唯一の機関として機能しました。しかし、本日お話しするのはそのこと自体ではなく、御雇外国人がどのように日本人を評価したかということであります。
 それはベルツ(Erwin von Baelz)博士の話であります。この方は、私が主任をしていた医学部内科学第二講座の初代教授中西亀太郎先生の先生にあたる人であります。ベルツは南ドイツの生まれでチュービンゲン大学とライプチッヒ大学で学び、明治9年(1876) 27歳で日本にやって参りました。以後明治35年(1902) に退職するまで26年間にわたって東京帝国大学で教鞭をとり多数の内科医を養成しました。私も含め日本の内科医の多くは何らかの形でベルツにつながっていると言っても過言ではありません。その意味で実に巨大な配電盤であったわけで、日本の内科学は彼によって始まったとすら言えましょう。このベルツの日本滞在中の日記が出版されていますが、明治裏面史としても、また明治日本に対する文明批評としても、甚だ興味深いものであります。ベルツは日本人を妻とし日本文化にも深い理解を示していますが、同時に鋭い批判もしています。明治34年11月、ベルツは在日25周年の祝宴で日本の大学の将来のためと断って次のような言葉を述べています。「わたくしの見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して日本ではしばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。」とまず述べ、西洋の科学は一つの有機体であって、数千年にわたって幾多の傑出した人々の血のにじむ努力によって出来上ったものであると続けています。そして更に次のように述べています。「西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神(科学の精神)を日本に植えつけ、これを日本国民自身のものたらしめようとしたのであります。しかしかれらの使命はしばしば誤解されました。もともとかれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として扱われました。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや正しく育てられた場合絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、 日本では今の科学の成果のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです。」
 このベルツの言葉は当時の日本に対する実に手きびしい批判であり、しかも100年近く経た現在にも通用する批判であります。基礎科学を気長に育てる努力をせず、手っとり早く応用研究に力を入れる日本人の性向は現在も続いているからであります。
 諸君がこれから大学院生として生活する京都大学は学問の樹をしっかりと育ててきた大学であります。だからこそ京都大学から何人かのノーベル賞受賞者が生まれたのでありましょう。諸君にはまず営々として学問の樹を育て上げる精神を学んでほしいと思います。決して成果だけを取り急いではなりません。既存の知識を学ぶだけでなく新しい知識を作り出す方法をしっかり勉強して下さい。大学院における諸君の生活が真に実り多いものとなることを祈念して私の式辞といたします。

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