2020.10.16 FRI
2つの先駆的事業から誕生
21世紀は「こころの時代」だと言われる。物質的な豊かさが人々の幸福につながらないことは明白になり、技術革新やそれに伴う社会システムの変革が加速する中、漠然とした不安感や生きづらさを抱える人が増えている。これからの時代、人や人を取り巻く社会はどのようにあるべきかについて数々の知見を提供する、こころの研究の果たす役割は大きい。そうした時代の要請に応える国内有数の研究機関の一つが、2007年に設置された「京都大学こころの未来研究センター(以下、こころの未来研)」である。
京都大学こころの未来研究センター本館
- LINK京都大学こころの未来研究センター
こころの未来研が誕生するベースには、2つの先駆的な事業があった。一つは、2002年に始動した、21世紀COEプログラム「心の働きの総合的研究教育拠点」である。京都大学では、認知心理学、発達心理学、比較心理学、社会心理学、脳科学、臨床心理学など幅広い分野の研究・教育・社会実践活動において優れた成果を生み出してきた。文学研究科、教育学研究科、人間・環境学研究科、情報学研究科と多数の部局に分散して存在している各研究分野が個性や多様性を大切にしながら互いに協調するしくみが、独創的な成果の源泉となっていた。このような京大心理学の特色を生かし、各研究分野が心理学連合をつくって総合的研究拠点を形成、実験からフィールド、臨床にわたる多様なアプローチによる連携研究と臨床実践活動を行うというCOEプログラムの取り組みが、こころに関わる多彩な学際的プロジェクトを積極的に行う場づくりの可能性を拓いた。
もう一つの源流となったのが、京都大学が文化庁、京都府、京都市、財団法人稲盛財団などとともに2003年から5年間実施した「京都文化会議:地球化時代のこころを求めて」である。国内外からさまざまな文化を担う人、人文諸科学を探求する人々を招き、こころをめぐるあり方をテーマに対話を行う中で、新しい発想や問題提起が生まれた。こころの未来研設立時の京都大学総長であった尾池和夫京都大学名誉教授は、2006年の京都文化会議「閉会のことば」の中で、日本語の「こころ」という言葉の意味の深さと広がりに言及、「京都文化会議の討議を継承させ、こころを研究するための新しい研究センターのような、目に見える形を創りあげる」と宣言している。
こうして、こころの働きの解明をめざして、多彩な学際的研究プロジェクトを推進するユニークな研究センターとしてこころの未来研が誕生した。センターの英語名は「Kokoro Research Center」とし、「kokoro」という日本語をそのまま使用している。「『こころの未来』の『未来』は、こころの多様な面を研究して成果を上げるというだけでなく、未来のこころはどうあるべきかというビジョンを提供するというわれわれのミッションを表しています」と、センター長・河合俊雄教授は語る。
こころの未来研究センターが設立された経緯を説明する、センター長・河合俊雄教授
MRIの導入で文理融合型研究へ
こころの未来研の特色の一つは、さまざまな領域が有機的に連携する研究活動にある。少人数のスタッフでスタートしたが、14年目を迎えた2020年現在、教授4名、特定教授1名、准教授2名、特定講師5名、特定助教3名の15名まで拡充した。研究分野も、神経科学、認知科学、文化・社会心理学、臨床心理学、仏教学、美学、公共政策学など、自然、人文、社会科学に広くまたがっている。センターを構想していた頃に、どこかにお手本になるような研究組織がないかと探しても見つからなかったというが、現在でも、こころに関わる研究センターでこれほど幅広い分野の研究者が集まるところは他にはないだろう。
研究領域として「こころとからだ」「こころときずな」「こころと生き方」の3領域を設定している。こころとからだ領域では身体や行動とこころの働きとの関わりに、こころときずな領域では人間関係や社会でのこころのあり方に、こころと生き方領域では現代の倫理観や死生観、自己意識・他者意識などに着目。それぞれの領域内で個別の研究を行うだけでなく、領域をつなぐ融合研究を積極的に進めてこころの多様な側面の相互のつながりを明らかにし、これまでにない視点を提供している。
研究領域の広がりに大きな影響を与えたできごとが、連携MRI研究施設の開設である。2012年3月、文部科学省最先端研究基盤事業の支援を受けて実験設備が導入され、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を使って脳の働きを画像化する研究が実施可能になった。河合センター長は、「維持費が相当かかることもあり、開設は大きな決断でした。しかし、これによって認知神経科学分野の先端的な領域もカバーすることができ、人文科学系だけでなく文理融合型の総合研究施設として本格的なスタートを切ることができました」と当時を振り返る。学内の各部局の研究者も幅広く活用しており、こころの未来研が管理を担当。また、学生、院生、若手研究者を対象にしたfMRI解析セミナーや認知神経科学に関わるレクチャーなどを継続的に実施して、若手による最先端の研究設備の活用を促進している。
こころの未来研究センターに設置された、超高磁場MRI装置
- LINKこころの未来研究センター スタッフ
- LINK連携MRI研究施設
社会から注目されるユニークな研究
研究はプロジェクト形式で行われ、センター員による研究プロジェクトのほかに、センター員と共同で実施する連携プロジェクトを一般公募する。両方で年間30本程度が進行するが、ユニークな成果を上げる研究も少なくない。人の正直さや不正直さを生み出す脳のメカニズムの解明をはじめ数多くの研究が、メディアにも取り上げられている。
地域や企業との連携研究でも大きな成果が上がっている。地域や日本社会の未来像をAIによってシミュレーションし持続可能な未来に向けた政策立案につなげる産官学連携研究では、実際にいくつかの自治体や省庁などから依頼を受けて政策提言を行っている。また、町や職場のあり方などの文化環境がそこに関わる人々のこころにどう影響しているのか、そこで育まれる価値観がどう維持・伝達されているかといった研究も、その成果を自治体や企業へ展開する動きが進みつつある。
そのほか、近年、増加傾向にある発達障害と心理療法による主体の確立との関係の解明、インドやチベットにおける仏教から倫理観、こころ観などの変遷を探る研究、国民総幸福政策を進めるブータンの総合的な研究など、各専門分野で多彩なテーマの研究が花開いている。
「テーマのみならず、ハードサイエンスがあればソフトサイエンスもあり、文献研究、フィールド研究もあれば、実践研究もあるといった方法論の多彩さが当センターの強みです。得られた知見を共有することで刺激を受け、次のアプローチのヒントになることも多々あります。『こころとは何か』という大きな課題が土台となっているグランドデザインを共有できているので、連携や融合の発想も生まれやすいんです」
AIを活用して持続可能な社会についての産官学連携研究を進める、広井良典教授
研究を促進させる企業や海外研究者とのつながり
社会的なニーズに応え、しかも長期的な視座を持つ研究が多いことで財団や企業からの寄付が集まり、支援事業や寄付講座など研究活動の充実に還元されるというよい循環があることも特色と言える。たとえば、2015年4月に発足した「京都こころ会議」は公益財団法人稲盛財団からの支援による事業である。複雑化した問題に直面している人間のこころに焦点を当て、豊かなこころが育まれる社会のあり方ついて国内外の研究者、芸術家、企業家による研究会、一般市民に向けたシンポジウムの開催、出版などを行って、こころの新しい理解をKyoto Kokoro Initiativeとして世界に発信することをめざしている。また、公益財団法人上廣倫理財団の寄付によって上廣倫理財団寄付研究部門が設置され、倫理学、公共政策、臨床心理学、幸福感の総合研究といったユニークな学際研究が進んでいる。
こころに対する新しい理解を広く社会に発信する「京都こころ会議」
- LINK京都こころ会議
海外との連携も活発だ。特にブータンとの関係は深く、2012年に開設したブータン学研究室では、こころの未来研とMOU(基本合意書)を締結している王立ブータン研究所、ロイヤルティンプ大学などと共同でブータン仏教を中心とする総合的なブータン研究を行っている。また、京都大学ブータン友好プログラムと連携し、異分野横断型の研究会、一般向けの文化講座なども開催している。
こころの未来研の研究動向は、専門分野の幅広さ、研究内容のユニークさから海外の研究者にもキャッチされており、世界から多くの研究者が来訪し長期・短期に滞在して研究を行っている。同時に、こころの未来研のスタッフも海外の大学から招へいされるなど、研究交流が盛んである。
ロイヤルティンプ大学との学術交流協定調印式
- LINKブータン学研究室
- LINK京都大学ブータン友好プログラム
社会貢献の事業化モデル確立
こころの未来研は、「社会に対して開かれた」センターであることを重視している。それも、「さまざまなレベルでのつながりを意識して、研究成果を社会にどのように還元できるかを考えている」と河合センター長は話す。「京都こころ会議」のような広く一般市民を対象にした規模の大きなイベントを通じて社会発信を行う一方で、臨床心理士や作業療法士、看護師、教員などこころに関わる専門家を対象にした「こころ塾」などの取り組みもある。「こころの科学集中レクチャー」「認知行動・脳科学集中レクチャー」など学生や研究者向けの教育プログラムも多彩だ。
「アウトリーチ活動を幅広く行うと、すそ野が広がります。いろんな人を対象にした多様な企画を立てて講師を探したりしていると、自然と面白い人と出会える。われわれの視野を広げ、コミュニティを拡大するチャンスでもあるんです」
今後は、社会貢献の事業化をさらに積極的に進めていく方針だという。たとえば、SNSカウンセリングもその一つだ。企業や自治体と連携して、従業員やその家族、学校の生徒などを対象にLINEを使った心理カウンセリングを実施し、臨床実践によって個人だけでなくコミュニティを支援するシステムを構築する事業の立ち上げを進めている。また、企業コミュニティの研究成果を活用して、企業組織の問題点を探り理想のコミュニティに向けた提案を行うコンサルタント活動も計画中だ。
「これまでは、企業や地域にご協力いただいて研究を行い、成果をフィードバックして活用いただいてきました。次のステップとして、蓄積してきた成果を利用してカウンセリングやコンサルティングのサービスを提供、対価をもらいながら研究にも活用していくというモデルを構築したいと考えています。大学の研究機関として、新しい試みになるのではないでしょうか」
社会や世界と密接につながり、コミュニティの拡張を通して創造的な研究空間を構築し、優れた成果を生み出す。アクティブで柔軟性に富んだこころの未来研の姿は、河合センター長の言う「まるでベンチャー企業」という形容がぴったりとあてはまる。創設以来、自由な探求や議論のできるフラットな組織のあり方が受け継がれていることも、創造性の原動力となっているに違いない。人のこころを取り巻くさまざまな課題のありかを探り、こころの豊かさとは何かを明らかにする、研究のさらなる深化が期待されている。
学生・研究者を対象に開催された「こころの科学集中レクチャー」
- 他領域との融合や連携を重視し、学際的にこころを探求
- ユニークな研究成果を多元的に社会、企業に還元
- 長期的な視座に立ち、未来のこころについてビジョンを提示
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