2019.11.07 THU
「フンボルト理念」の導入
京都大学では、創設当時から、人文学が大きな役割を果たしてきた。その存在がいかにユニークで、京都大学らしさを象徴するものであったのか、歴史をたどりながら検証してみよう。
京都大学の人文学研究は、1906年、現在の文学部の前身である文科大学が設立されたことに始まる。小説家・評論家として活躍した高山樗牛が、「京都は町そのものが博物館ともいうべき町であり、そういうところにこそ文科大学を早急につくる必要がある」という論稿を発表するなど、社会からの要請も少なからずあった。
哲学科、史学科、文学科の3学科で出発。初代の文科大学長を務めた倫理学者・狩野亨吉は、国文学の講師として小説家・幸田露伴、東洋史学の講師として当時ジャーナリストとして活躍していた内藤湖南を据えるなど大学を卒業していない人材であっても採用し、当時の大学の常識を超えた型にとらわれない人事を行った。
「この人事方針とともに学風に大きな影響を与えたのが、『フンボルト理念』と呼ばれる、ドイツの大学の研究中心主義の導入です」と京都大学大学院文学研究科・出口康夫教授は話す。研究中心主義とは、講義だけでなくゼミナールをカリキュラムに組み込み、学生に研究をさせるという、現在の大学では当たり前になっている教育システムのことである。当時、ドイツの大学で導入されたまだ新しい教育法であり、ドイツ留学から帰国した教授たちを通して世界へと広がっていった。アジアでは京都大学法学部の前身である京都帝国大学法科大学が初めて導入、文科大学もこれに倣った。
「理系の研究における実験は、文系でいえば文献を実証的に読むことに当たります。京都大学では設立時から、学生は研究室に出入りし文献を自由に読むことを許されました。教授の講義を聴くだけではない自立した研究者として扱うことで、学生を育てていったのです」
京都大学の人文学のルーツを語る出口康夫先生
- LINK人文科学研究所
- LINK京都大学大学院文学研究科・文学部
豊かな業績を生み出した京都学派
1910年、文科大学哲学科に新しい教授が就任した。留学した前任者の「留守居役」として倫理学担当の助教授に就任した西田幾多郎である。以来、その翌年に出版した『善の研究』をはじめ、西田は多くの優れた仕事を成し遂げていく。1914年から14年間、西田は哲学講座の教授を務め、宗教学に波多野精一、哲学に田邊元、倫理学に和辻哲郎などそうそうたる研究者を教授陣として招いた。一流のスタッフによる研究中心主義の学びと西田哲学の魅力にひかれ、優れた学生たちが哲学科に集まってきた。
日本を代表する哲学者の一人であり、京都学派の創始者である西田幾多郎
こうして、西田とその同僚たち、さらに彼らが育てた優れた弟子たちによって形成されたのが「京都学派」である。西田自身も傾倒した禅を研究の中心に置いた人としては、仏教学の久松真一や宗教学の西谷啓治が出た。また、マルクス主義に関心を寄せ、オピニオンリーダーとして活躍した三木清や戸坂潤、科学哲学・数理哲学の研究者として知られる下村寅太郎、評論家の唐木順三や林達夫、文部大臣になった天野貞祐など、多彩な人材が巣立っていった。
その特徴について、西田幾多郎を研究する京都大学・藤田正勝名誉教授は「ドイツ語で『ゼルプスト・デンケン』、つまり主体的に思索することが尊重され、先生と弟子が互いに影響を与え合う双方向的な関係が、彼らにはありました」と語る。たとえば、三木や戸坂は、恩師である西田や田邊の哲学は観念論で現実社会の中では役に立たないと批判。それを受け止めた西田や田邊は、ヘーゲルやマルクスの弁証法を通じて社会の矛盾を把握することに力点を置くようになったという。
「京都学派は一定の理論を共有した集団ではありません。京都学派という名前そのものが、もとはといえば、戸坂が西田の哲学とそれを継承する田邊の哲学とをまとめて、批判的に呼んだものでした。京都学派が豊かな業績を生み出すことができたのは、自ら思索し互いに批判し合いながら真理を求めていく、そのような思索のスタイルを共にする『知的ネットワーク』であったからだと言えるのではないでしょうか」
西田幾多郎と京都学派を解説する藤田正勝先生
- LINK京都学派アーカイブ
西田哲学という鉱脈
西田は、私たちの周りにある具体的な現実は変化してやまないものであり、そのような現実は、外から客観的に観察し細かく分析して、一つひとつ固定化していくやり方では理解できないと考えた。変化してやまないものは、まさに動いている状態で、つまりその動性においてとらえる必要があり、「われわれが物となって、それを内から理解する」ほかはないと考えた。藤田先生が、「流動性の論理」と呼ぶこのような西田の捉え方、考え方は、人文科学のみならず、社会科学、自然科学にも大きな影響を与えた。
たとえば、生態学者で霊長類学の祖でもある今西錦司は、西田の、生命が環境を変えていく面と環境が生命を変えていく面の両者の働きが、いわば弁証法的に一つになっているという考えに注目。田邊の考えも含めた、自然は有機的に統合された全体であるという理解から、ダーウィンの進化論とは異なる、独自の進化論をつくりあげていった。
生態学者であり、登山家でもあった今西錦司
西田の独創性は、さまざまな人を刺激しその中に知の光を灯してきた。それは、時代や国境を越えて飛び火し、近年は、海外でも西田哲学への関心が高まっているという。欲望や欲求の追求から解放された自己のあり方としての「無」、形あるものをその背後にある形のないものから理解しようという発想など、西田の中にある東洋的なものの考え方が、西洋由来の学問や文化では見えてこなかった問題解決の糸口になるのではないかと期待されている。
また近年世界のさまざまな国々で、非西洋の知的伝統を西洋の哲学的伝統と同じ価値を持つものとして再評価しようとする動きが生まれてきているが、そのような観点からも京都学派が生み出してきた成果やその伝統が注目されている。哲学を新しい観点から定義し直すことも現代の哲学の一つの課題になっている。
西田は、自分のことを「一介の鉱夫である」と述べた。西田は確かに、知の鉱脈につるはしを振るい、未知の鉱石を掘り出してくるという、もっとも力のいる、そして他の追随を許さない仕事を行った。京都大学の人文学にはこのような既成のものに満足せず、自由な発想でものを考え、新しいものを生み出していく開拓者の気風が満ちている。
- 主体的に思索し、自らが生きた哲学を実践することを重視
- 師弟が批判し合い真理に迫る、双方向的な結びつきがある
- 西田哲学、京都学派の思索は時代や国境を越えた広がりを持つ
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